宇佐八幡神宮を望む丘の途中にあります。
宇佐神宮から散歩コースに良いから。
古びたこじんまりとしたお社です。
変わった雰囲気あります。
御朱印ないです。
一直線の道路の先に宇佐神宮の鳥居が見えて感動。
宇佐神宮呉橋が架かる西参道に至る街道を、勅使道という。
要は昔のメインストリート。
この道沿いに、放生会に関わる化粧井戸・凶首塚・百軆殿が並ぶ。
隼人の乱に際して、その征伐を八幡神が「我行きて降伏すへし」と支援し、取った首を凶首塚に埋めたので、これを弔うために百体殿を立てて放生会を始めたことになっている。
嘗ての八幡宇佐宮放生会は、香春町採銅所の古宮八幡宮清祀殿にて鋳造された銅鏡を持ち来たり、古表社・古要社の傀儡を化粧井戸で洗い、宇佐宮の神輿と百体殿に合流。
隼人の霊を慰める。
次いで和間浜の浮殿に移り銅鏡を奉納し、最後に傀儡舞を奉納しつつ蜷貝を放流して供養したという。
つまり百体殿が中心となり、浮殿を舞台としたイベントで、芸能人が崇めた百太夫社の元ともいう。
「続日本紀」に記す隼人の乱は、養老4年2月に始まり、3月に大伴旅人を大将軍、笠御室と巨勢真人を副将軍として征伐開始。
しかし旅人は8月に、藤原不比等の危篤につき呼び戻され、副将軍2名は翌年7月に帰還。
1年4カ月かかって「斬首・獲虜合千四百余人」というから、普通に激戦だったようだ。
この間、養老5年6月に、法蓮が宇佐君の姓を賜っている。
宇佐八幡神宮を望む丘の途中にあります。
この辺りから神宮まで真っ直ぐな勅使道。
隼人平定時に討ち取った首を奉る神社。
放生会の由来にも繋がるそうですよ。
放生会に関係するいわれの残る神社。
覆い屋の中の本殿は古そうです。
勅使街道が宇佐神宮呉橋へと一直線に延びるその脇に在る。
この百體をあの魏志倭人伝にある卑弥呼の死に際しての奴婢百余人の殉葬と記されていることからここがその場所だと言う研究者もいるのだが、看板の説明にあるように記されたことの方が正しかろう。
古墳を利用したかもしれない凶首塚もあるしな。
しかし、すぐ上に古墳石室らしいものがあってこの方が凶首塚の名にふさわしいと思うのだがな。
名前 |
百体神社 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.7 |
この場所からの朝日が綺麗です✨