名前 |
目安町の一里塚 |
---|---|
ジャンル |
|
住所 |
|
評価 |
4.0 |
秀吉の九州平定の際の功により、久留米に毛利秀包、柳川に立花宗茂が封ぜられるも、関ヶ原合戦に際し、両者とも豊臣方に組し改易、徳川政権下の初代筑後領主に柳川城を居城とする田中吉政が就く。
支城久留米城に向かう柳川街道を整備したのは田中吉政で、津福町ー目安町ー山野町ー田川町ー横溝町ー大角町ー金屋町ー下田町の宿駅を置き、柳川起点の一里石を設置している。
2代目に嗣子なく田中氏が改易になると、大坂の陣の功などにより、久留米に福知山から有馬氏が、奥州棚倉(白河やや南東)で再び大名に取りたてられていた、立花宗茂が柳川再封となる。
そのまま「一里石」採用の立花柳川藩に対し、有馬久留米藩は「一里塚」を採用。
有馬久留米藩では、久留米を起点として、田中時代の一里石との交換が行われている。
柳川の一里石が、一里、二里、三里...と番号通しに対し、久留米の一里塚は、地名呼称の「一里塚」であるようだ。