山号を雲風山といいます。
大平国祐ゆかりの寺●国祐寺この寺は法華宗(本門流)の寺院で、山号を雲風山といいます。
尼崎市・大本山・本興寺の末寺です。
寺の縁起によると、弘仁13年(西暦822)の建立で、最初は、光明光毘盧遮那寺(ひるしゃなじ)と号する真言宗の寺で平安時代の頃は、和田義盛の一族が寺の敷地内に小城の和田山城を築いていた山頂に存在した和田山城は、大和田山城と呼ばれた(こちらは、小和田山城)近くに伊丹但馬守(大平家重臣)の守る大坪城(おおつぼ・じょう)もあり長宗我部元親の軍に甚大な被害を与えたその後天正6年(西暦1578)に獅子ケ鼻城(讃岐和田山城・讃岐大平城)の城主である大平伊賀守国祐(くにすけ)により法華宗に改宗され、寺号に自からの名を付した国祐寺(こくゆうじ)と改められたという。
和田山城の出先の小天守(二層天守)があったとされる武器庫兼詰所の跡👈出城寺周辺の遺跡は、大坪城のモノ和田山山頂の和田城の盾の役割も担った大坪城(おおつぼじょう)跡‼現在は、国祐寺平地にあった平城で水堀や堀に竹槍が設置されて居たためおぼれたり、堀に落ちて竹槍が刺さり長宗我部家臣を大勢倒したが数で押しきられた(堀の上には、ワラを薄くひき敵兵が上を歩くと落ちて絶命した)下は、竹槍が設置されとどめに合田家や露原家等の大平家家臣が鉄砲を上から撃ちかけて確実に撃破した出先の城ながら15000人で攻めてきた長曽我部軍に大きな被害をあたえた長曽我部元親は、家臣達にいらだち小城にいつまでも時をかけて居れぬ全軍で攻め落とせと家老の福留に命令したと全線で戦っていた大平家家臣の大坪城城代伊丹備後守正久(いたみ・びんごのかみ・まさひさ)の放った大平家の雇った伊賀忍者により聞かれていたと豊浜では、長曽我部家も甲賀忍者を雇い現代まで口伝えに伝わっているお互い忍者を雇い🌟🌟(戦国時代の混乱により他家に国主の座を奪われた)細川頼弘が死して讃岐の国主が不在に成ると臨時の国主に大平国祐が大和朝廷より任命されたが‼細川頼弘の遺児の後見人として大平国祐も権力を行使した大平家が土佐細川家筆頭家老と平行して国主の任についていた)ゆかりがあり伊賀忍者(三重県を本拠地とする)を雇い👇普段は、伊賀大平家(現在の三重県の大平尾町)に館があった讃岐大平家の分家に従っていた(主に伊賀の上忍達が)伊賀の実質の国主は、伊賀大平家が遠く四国に居る本家の代役として請け負った長曽我部元親は、(元は、土佐細川家・土佐一条家・土佐大平家)が残した財力にモノを言わせてえんもゆかりも無い伊賀忍者の敵対勢力の甲賀忍者(滋賀県を本拠地とする)を雇い入れた正久は、相手が焦って居ると忍者より報告されると今が正念場ぞ本城(山頂の和田山城)に長曽我部軍を一人でも入れては、成らぬぞと士気を上げるため叫んだ1000人ほどの長曽我部軍を撃破したものの大坪城は、降伏して廃城後数年放置された後に国祐寺(こくゆうじ)として生まれ変わった長宗我部家に落とされて本城の和田山城も落城大平国祐が自身の名をとり寺を創建し、戦国時代に亡くなった一族や家臣の供養をしたとされる場所豊臣政権でえんの下の力持ちをした(土佐の守護大名だった事から)全国各地で傷ついた大名や大名の家臣が国祐を頼って讃岐に来た(同じ藤原秀郷の流れをくむ小西家や小川家もかくまった・側室の父親である駿河今川家一族が今川氏真と良好な関係を保ち駿河から追放されて来た、氏真を一時かくまった)のちに今川氏真の孫娘と国祐の孫である大平国義が夫婦に(元駿河・遠江・三河の国主の今川家と元土佐の守護の大平家の血を引く)まさに生まれながらのエリート一族妻の曾祖父の今川義元から一文字もらい(国義の母親と妻が叔母と†姪めい†)従兄弟同士の結婚であった今川国真と名を改めたて現在の三豊市仁尾に陣屋を建てて妻子と静かに暮らした国祐は、同族以外も頼られれば庇護した来るもの拒まずの精神で人口も増えた土佐蓮池城を拠点に土佐に21ヵ所の城を持ち6000人の家臣を持つ土佐大平家当主でもあった自分も土佐から讃岐に落ちのびる時、多くの家臣を失い落武者の気持ちは、良く理解していた讃岐の国の仁尾に当初住んで、讃岐国主の仁尾城城主の細川頼弘の親衛隊長をして居た当時の西讃で大暴れした山賊の平川高久を打ち破り、恩賞として讃岐半国の地侍のリーダーである地頭として豊浜に詰めて他国の侵略に防備を固めつつ現在の徳島県池田町や愛媛県川之江に詰所を建てて家臣を派遣して讃岐を守った阿波の国や伊予の国からの侵略者に備えた(国境警備隊のリーダーでもあった)敵中突破と一騎討ちが得意で土佐に居た頃も👹鬼の国祐👹ありと長宗我部元親にも恐れられた同じ兵力で国祐と戦ったなら絶対に勝ち目は、ないと元親自身も言っていたという猛将中の猛将。
この寺は大平国祐の居館跡に、建てられた法華宗の寺院です。
『讃陽古城記』には、国祐の居城がこの上の山に気付かれていたと記されています。
讃岐と伊予の国境にある位置し、城のある山容は獅子に似ているところから「獅子ヶ鼻」とも呼ばれ、そのため獅子ヶ鼻城とも呼ばれたようです。
城跡の周辺は急崖の地形で、後方は高尾山へと繋がります。
眼前には燧灘を眺望でき、三豊平野の西部を眼下に見下ろすことができます。
城主の大平氏は、藤原秀郷の五男千常の子孫と称し、千常の子文脩は近藤氏を名乗りました。
7代目の国平は、正治元年(1199)讃岐の守護に任ぜられています。
国平の子国盛より大平姓を名乗り、頼朝より土佐にて所領を賜っています(大平氏系図)。
その後国祐の時、永禄5年(1562)長宗我部元親に攻められ、土佐を逃れて天霧城の香川氏を頼って讃岐へ来て、多度郡中村にて居住し、のち姫之郷を給付され和田村を領しました。
獅子ヶ鼻に城を築き、ここを拠点にしたのです。
以後は、天霧城の香川氏の家臣として活躍します。
天正3年(1575)には、香川山城守・三野菊右衛門とともに中讃の金倉顕忠を攻めた記録もあります(通記)。
しかし、同6年、長宗我部氏の讃岐侵攻により、獅子ヶ鼻城は包囲・落城します。
この時、国祐は城を脱出して落ち延びますが、逃げ遅れた国祐の女雪姫は乳母が抱きかかえ、城下の池に身を投げます。
そこからこの池を姥ケ懐池と呼ぶようになったと伝えられています。
やがて豊臣秀吉が四国支配を行い、讃岐は仙石秀久に支配されるようになると、身を潜めていた国祐は秀久に仕えます。
14年九州遠征に従軍し、豊後戸次川で島津に大敗し、息子国常や家臣を失い、帰国して家臣の家で養われることになります。
慶長8年(1603)入水し、その生涯を終えます。
なお国祐の弟は近藤出羽守国久で高瀬の麻城主で、長宗我部に攻められ戦死しています。
生前の天正3年国祐は法華宗に改宗し、真言宗の毘廬遮那寺を廃し、国祐寺を建立しました。
国祐の墓は当寺にあります。
和田山(猪ノ鼻いのはな)🏯城の出先の館のとしても役割を果たした。
名前 |
国祐寺 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0875-52-2859 |
住所 |
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評価 |
4.4 |
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