天照大御神の陵墓の上に造られた式内大社。
天石門別八倉比賣神社 / / / .
参道の長い階段を登ってゆきます、御朱印は、阿波史跡公園 管理棟と鳥居の間に社務所があります。
お社はとても荘厳な雰囲気で、素晴らしい建物でした。
自分の下調べが足らず、本殿すぐの所まで車で行ってしまい難儀しました。
この先車両での通行が難しいなど、案内があると助かります。
御祭神を大日靈女命(オオヒルメノミコト、天照大神)とする神社です。
八倉比売=天照大神と推測されております。
(神社の古文書に書かれているらしい)式内正一位(延喜式の明神大社)で旧社格は県社となります。
杉尾山自体を御神体としていますが、元は杉尾山を含む気延山の山頂に鎮座していたようです。
神社自体が古墳の上に位置しており、社殿部分が前方後円墳の方墳部、奥にある奥の院(卑弥呼の墓!?)部分が円墳となっているようです。
摂社としては当山の麓にある箭執神社、八倉比売神社の道中にある松熊神社、当山の奥にある大泉神社、境内にある祠二社となります。
境内には石段上った所と社殿前に狛犬、文化十年燈籠、寛延二年燈籠、百度石、当社由緒が書かれた略記板、手水舎などが見られます。
雰囲気もよく見所の多い神社で、ハイキングコースにもなっていますので、是非御参拝してください。
卑弥呼の墓があると聞いて訪れました。
お社の背後の山に登る階段を登ると古い石組の祭壇らしき物がありました。
阿波国の一宮さんの一つとされています。
参拝したときは雨でしたが、何とも言えない神聖な感じを受けました。
(卑弥呼のお墓がある、とされているから?)
大好きで何度も参拝させてもらってます。
いつ行っても清掃の行き届いた素晴らしい神社です。
氏子の方が掃除してくれてるのでしょうか?いつもありがとうございます。
ご苦労様です。
鳥居をくぐり階段を登りきった瞬間、凄いパワーを感じるのですが、とても優しい空気が流れています。
ぜひ皆さんも1度参拝してみて下さい。
おすすめです。
本殿は遺跡近くの公園の坂450m登った階段上に鎮座してます小さな祠が所々にありました御朱印は登る手前の宮司さん宅にて頂けます。
県外から諸用がてら訪れました。
特に何か特別な物が在るわけではなかったけれど、御神体の緑深いひんやりした空気の穏やかな山と相まり、静かな非日常的な存在感がありました。
古墳もあり古代から神聖な場所であったと思わせる。
公園の駐車場から歩いたけれど、麓の鳥居からまた歩いてきたい。
卑弥呼のお墓説がある祠があります。
江戸時代に鎮座されたそうですが、謎が多い様に感じます。
祠を囲む五角形の台座が星に見えてしまう。
阿波一宮は論社で4つありその1つ。
創建の年代は不詳ながらも1773年に書かれた文書には、鎮座から2150年と記されており逆算すると紀元前378年となる祭神は大日靈女命(おおひるめのみこと)天照大神の別名とのこと厳格さは中々のものです御朱印はふもとにある神主さんのご自宅でもらえます。
別名大日孁女神、オオヒルメノミコト、大日女尊、大日孁、大日女、天照日女之命、天照孁女貴、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命別称天照大神、天照皇大神、皇大御神、天照坐皇大御神神階神階を超越神格高天原主神、太陽神、幡織神、農業神、皇祖神つまり、米作り、機織り、農業指導、日本国として成り立っていく過程での最大の功労者です。
亡くなられた過程は、大宜津比売とだぶります。
阿波国一宮天石門別八倉比売の分祀と思われます。
大国主とスクナヒコナ(渡来人で医学にも詳しく、小さい人)は、農業指導で全国行脚の中で、有馬、伊予、伊豆地方の温泉の開発に当たりましたので、功労者を偲んで建立されたのでしょうか。
徳島にもヤマモモがありますが、こちらにもあります。
御朱印有ります。
社務所は基本無人です。
参拝道横の宮司さん宅で頂けます。
御祭神 八倉比売命 大日靈女命社格 阿波國一宮 旧県社グーグルマップでいくと、何処までも山道を登らされます。
階段を登りきるのに息切れしますが、爽快感と達成感が味わえます。
公園より500メートルほど高台にありました下の公園からご近所のお母さんが途中まで案内して頂きました境内でもご近所のお父さんともお話させて頂きました笑朝早くの参拝で清々しい気持ちになりとても良かったです。
天照神の涙、神山でのスサノオ神との争いはお宝を返してというもスサノオは返さない、の争いは古代都市神山を二分する確執であり、スサノオ神系列と天照神の系列の戦いでありました、天照神はスサノオ神より遅れて神山にきていますから、スサノオの古代国家はできていました。
スサノオは天照神の神殿の雨乞いの滝の上にあったのを一夜にして焼き付くして、長女の大山積神の大山(焼山)もやきつくしました、三人は兄弟です。
自暴自棄となったスサノオはなにをするかわからないと怖くなった天照神はキノベ山に降りてくる予定をしていました、大山積神は阿讃山脈にいく予定をたてました。
神山における争いは誰もが書いておりませんがスサノオはお宝は返すが、天照神の持ってきたユダヤのマナセ王の刻印との交換条件をしたのです、もちろん天照神は交換はいたしませんので、ものわかれとなりました。
徳島市入田町の船はて神社と鮎喰川をはさみまして歯の辻神社の間を天の安河といいまして、最終的に代理神をお互いに立てて話し合いをいたしました、その時の代理神はスサノオ側は貴船神で天照神の側は猿田彦神です、そして検証神に速秋津ひめ神です。
話し合いの結果はスサノオ神をこの国の王に認めるのと宗像三女神をスサノオ側に頂くことに決まりました、その時点でスサノオ神の天皇決定ですから、天照神の夢は破れました、しかし国印は渡しておりませんが、お宝は返りましたが息子のニニギ神を王にする夢は消えました、これが天照神の心理です、天照神の涙なのです。
続きはまたどこかで記載いたします、私はボランティアガイドマンですから、どこかでガイドしているとおもいます。
空気が、変わっててよかったですねー☆無料DVDXも置いてくれており☆ここが、卑弥呼の墓ならいぃなー!!と願いまする(o•ω-人)
気延山を良く登ります。
その登山口(下山口)がお宮になります。
世が世ならば伊勢神宮の内宮に当たる所でしょうか❗
天石門別八倉比賣神社の秋例大祭、平成30年10月13日午後からの神事と神輿渡御に同行撮影記録に残すことができて本当に良かったです。
参拝された皆様にほんとうに素晴らしい御利益あります。
立派な拝殿。
静かで趣のある境内。
しかしながら、麓からの道は緩やかでも短くもないため、よい運動になると言っても過言ではなかろう。
天照大御神の別名の神社社の奧山は、五角形の石積があり澄みきっていました。
山自体が御神体だそうです。
パワースポットどころではないとても神秘的な場所です。
卑弥呼が眠る神社らしいです。
立派な拝殿。
静かで趣のある境内。
しかしながら、麓からの道は緩やかでも短くもないため、よい運動になると言っても過言ではなかろう。
八倉比売神社(やくらひめじんじゃ)杉尾山に連なる気延山の山頂にあったが、後に気延山南麓の杉尾山に鎮座した。
安永2年(1773年)に書かれた文書には、鎮座から2150年と記されており、逆算すると紀元前378年(孝安天皇15年)となる。
承和8年(841年)に正五位下の神階を授けられ、元暦2年(1185年)に最高位の正一位となった。
江戸時代には阿波国を治めた蜂須賀氏が当社を崇敬した。
寛保年間(1741年 - 1743年)に杉尾大明神と称し、明治3年(1870年)に現社名に改めた。
(出典:Wikipedia)
天照大御神の陵墓の上に造られた式内大社。
天石門別八倉比賣神社略記式内正一位 八倉比賣神宮御祭神 大日孁女命(別名天照大神)御神格 正一位、延喜式に記録された式内名神大社である。
仁明天皇の承和八年(八四一)八月に正五位下を授けられ、清和天皇貞観十三 年(八七一)二月二十六日に従四位上を次第に神階を昇り、後鳥羽天皇の元暦 二年(一一八五)三月三日正一位となる。
御神紋 抱き柏 当社は鎮座される杉尾山自体を御神体としてあがめ奉る。
江戸時代に神陵の一部を 削り拝殿本殿を造営、奥の院の神陵を拝する。
これは、柳田国男の「山宮考」による までもなく、最も古い神社様式である。
奥の院は海抜一一六米、丘尾切断型の柄鏡状に前方部が長く伸びた古墳で、後円部 頂上に五角形の祭壇が青石の木口積で築かれている。
青石の祠に、砂岩の鶴石亀石を 組み合せた「つるぎ石」が立ち、永遠の生命を象徴する。
杉尾山麓の左右に、陪塚を従がえ、杉尾山より峯続きの気延山(海抜二一二米) 一帯二百余の古墳群の最大の古墳である。
当八倉比賣大神御本記の古文書は、天照大神の葬儀執行の詳細な記録で、道案内の 先導伊魔離神、葬儀委員長大地主神、木股神、松熊二神、神衣を縫った広浜神が記さ れ、八百萬神のカグラは、「嘘楽」と表記、葬儀であることを示している。
銅板葺以前の大屋根棟瓦は、一対の龍の浮彫が鮮かに踊り、水の女神との習合を示 していた。
古代学者折口信夫は天照大神を三種にわけて論じ、「阿波における天照大 神」は、「水の女神に属する」として、「もっとも威力ある神霊」を示唆しているが、 余りにも知られていない。
当社より下付する神符には、「火付せ八倉比賣神宮」と明記。
鎮座の年代は、詳かではないが、安永二年三月(一七七三)の古文書の「気延山々頂よ り移遷、杉尾山に鎮座してより二千百五年を経ぬ」の記録から逆算すれば、西暦三三 八年となり、四世紀初の古墳発生期にあたる。
しかも、伝承した年代が安永二年より 以前であると仮定すれば、鎮座年代は、さらに古くさかのぼると考えられる。
矢野神山 奉納古歌妻隠る矢野の神山露霜に にほひそめたり散巻く惜しも柿本人麿(萬葉集収録) 当社は、正一位杉尾大明神、天石門別八倉比賣神社等と史書に見えるが、本殿には 出雲宿祢千家某の謹書になる浮彫金箔張りの「八倉比賣神宮」の遍額が秘蔵され、さ きの神符と合せて、氏子、神官が代々八倉比賣神宮と尊崇してきたことに間違いない。
古代阿波の地形を復元すると鳴門市より大きく磯が和田、早渕の辺まで、輪に入り くんだ湾の奥に当社は位置する。
天照大神のイミナを撞賢木厳御魂天疎日向津比賣と申し上げるのも決して偶然では ない。
なお本殿より西北五丁余に五角の天乃真名井がある。
元文年間(一七三六―四一)まで 十二段の神饌田の泉であった。
現在大泉神として祀っている。
当祭神が、日本中の大典であったことは阿波国徴古雑抄の古文書が証する。
延久二 年(一〇七〇)六月廿八日の太政官符で、八倉比賣神の「祈年月次祭は邦国之大典也」 として奉幣を怠った阿波国司をきびしく叱っているのを見ても、神威の並々でないこ とが感得され、日本一社矢野神山の実感が迫ってくるのである。
-境内案内板-
名前 |
天石門別八倉比賣神社 |
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ジャンル |
/ |
電話番号 |
088-642-2395 |
住所 |
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関連サイト | |
評価 |
4.4 |
通常、「天岩戸」と充てていますが、本家では、「天石門」と充ててありますね。
また、わざわざ「別」と入ってますから、気を付けなくてはなりませんね。
八倉比売様と言えば、神武天皇が東征する前の時代にイスラエルからやって来た方ですね❗船にアークを積んで来たと言われています❗アークと言えば(三種神器)が入っている箱です❗この箱のレプリカは、京都の祇園祭や剣山の御神輿祭でも見ることが出来ます❗山車(だし)の紋様が中東のものが飾られているので想像できますね❗祇園祭とは、中東イスラエルのお祭りを再現して、平安京での第二のエルサレムの再構したと言う祝いの御祭りです❗八倉比売様は、徳島県に辿り着いた時に名前を変えて活動していました❗預言者でもあるので【ヒミコ】と名乗りました❗この地域の国を統治していたのは「スサノオ様」です❗スサノオ様が【アーク】を【ヒミコ様】に返す代わりにスサノオ様は、王位に就かせて欲しいと【ヒミコ様】に約束したのです❗また、宗像三女神もスサノオ様の家来にしたいとの申し入れに了承しました❗だから、スサノオ様は、徳島県の王位に就かれたのです❗本当のヒミコ様の御心は、孫のニニギノミコト様に徳島県の王位に就かせたかったのですが❗そして、スサノオ様は、古事記にも書いている通り、神武東征を果たします❗奈良県桜井市の大神神社は、スサノオ様を祭っているのです❗ヒミコ様は、亡くなります❗亡くなった後は、【天照大御神様】の襲名なりました❗そして、伊勢には、二代目の天照大御神様が送られたのです❗初代の天照大御神様は、女性であり預言者であるヒミコ様でには、てすから、魏志倭人伝なは、預言者として描かれ、ヒミコ様と話せるのは、一人の男性とのことですが、それが王様であるスサノオ様だと推測します❗亀石のスサノオ様と鶴石のヒミコ様が【かごめかごめの歌を歌い、後ろの正面だあれ❓】と伝承されていますが、二人の後ろには、真名井の神社があります❗真名井ですから、【マナ】であり、イスラエル王の【マナセ王】だと理解します❗マナセ王は、ヒミコ様の祖母のヘフシバ様、または、お妃のメシュレメテ様かと思われます❗この天石門別八倉比売神社は、移設されていて、何処に建ててあるのかと言えば、前方後円墳の頭の部分なのです❗そして、誰の古墳かと言えば、スサノオ様の古墳なのです❗もし、参拝されるなら、マナーを自覚しておかないといけないと思います。
緑色の石は、京都へも運ばれたようです。
By ロックベル。