保元の乱が起こりました。
崇徳天皇が、讃岐に流された後、仮の御所として過ごされた場所です。
「ここもまた あらぬ雲井となりにけり 空行く月の影にまかせて」と詠まれた場所です。
今は碑がたっていますが、小さな公園ぐらいの場所でした。
ここに天皇がお住まいになられたのかと思うと、無念の気持ちが伝わってきました。
保元の乱で敗れた崇徳天皇が讃岐に流され綾川の東側に有る雲井の地に仮御所を設け三年間暮らされたそうです。
崇徳天皇は鶉を好かれて鶉を放されたので鶉の里と云う別名が有ります。
後の時代に雲井御所の位地が分からなく成って居たのを江戸時代に成り松平頼恕公が探され石碑文を設置されたそうです。
気軽に行ける場所です。
史跡巡りにどうぞ!
ホテルで行き方を教えてもらったので行けましたが、行きにくかった。
知らずに訪れると普通の広場です。
特別な感じはしないですが正面の門についている菊の御紋をみるとチョット特別感が湧きますね。
1156年(保元元)、京都で崇徳上皇派と後白河天皇派が争う、保元の乱が起こりました。
敗れた崇徳上皇は讃岐国に流され、8年間の配流生活の末に讃岐で死去します。
崇徳上皇の讃岐での動向は、後世の伝説以外はよく分かっていませんが、500年以上後に高松藩が現地比定した雲井御所がここです。
綾川の旧河口近くで、古代の松山の津があり周辺に港湾関係者や倉庫があったと推測される場所です。
雲井御所は、後世の比定や付会なのでどこまで当時の状況を反映しているか分かりません。
しかし、上皇没後4年目の1168年(仁安3)に讃岐を訪れた西行も、松山津に上皇の御座所跡を訪ねていますから、物や情報が集まる港湾で管理のし易い場所の周辺に上皇が置かれたことは確かなようです。
配流中の上皇の守護・監視は、讃岐藤原氏などの地元武士が行っていた可能性があります。
ここからに上皇の落胤伝説が生まれる素地が生まれたようです。
「雲井御所跡地」は保元の乱に敗れたのち讃岐に配流された崇徳上皇が仮住まいされた当地の庁官であった綾高遠(あやのたかとお)の邸宅跡地。
その後、仮住まいはすぐ近くにある長命寺に移されたとの記録があって、その長命寺跡地はすぐ前を流れる綾川に架かる橋を渡り、少し上流に移動したところです。
土手沿いの田圃の中に「長命寺跡碑」が建てられていますが石碑以外は何も見るところはなく寂しい。
でも両地点間は歩いても400m程度なのでついでに立ち寄られたら良いかと思います。
「雲井御所跡地」から東方に見える五色台の山上には、「崇徳天皇白峰陵」があります。
上皇は雲井御所から国司庁近くの府中、鼓岡の木ノ丸殿に移り住まわれたがここで46歳の生涯を閉じられ、ご遺体は五色台の稚児ヶ嶽山上で荼毘に付され祀られています。
四国で唯一の天皇のお墓です。
白峰陵にはすぐ隣接して崇徳上皇を祀る「白峰宮」もあります。
崇徳上皇の一時住まわれたところです。
讃留霊の子孫の綾一族の家があったところだと言われている。
崇徳上皇は、保元の乱に敗れ讃岐へ配流された。
最初に国府の庁官であった綾高遠の館を仮の御所としたところと伝えられている。
『白峯寺縁起』には,上皇は高遠の御堂にて三年を過ごされたとある。
上皇が詠まれた「ここもまた あらぬ雲井となりにけり 空行く月の影にまかせて」にちなんで「雲井御所」と呼ばれるようになったという。
道が狭いので気をつけて!
名前 |
雲井御所跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト |
http://www.city.sakaide.lg.jp/soshiki/bunkashinkou/sutokujyoukou.html |
評価 |
3.7 |
※バス停の雲井橋とは位置が異なるため注意。