名前 |
北条時宗公産湯の井 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.7 |
「鎌倉時代」とは、1185年(文治元年)から1333年(元弘3年[南朝]/正慶2年[北朝])までの約150年間のことです。
鎌倉時代前期とは、1221年(承久3年)までの約40年間のこと。
鎌倉幕府初代将軍「源頼朝」は、日本ではじめて封建制度を成立。
武士は幕府のもとに組織され、御恩と奉公の主従関係を結びました。
しかし1199年(正治元年)、源頼朝は落馬して死去。
やがて幕府の実権は、源頼朝の妻「北条政子」の父「北条時政(産湯は一つで清水で発育したのです)」からなる北条氏が握るようになるのです。
これにより、京都の朝廷では「後鳥羽上皇」が武家政権を廃止して王政復古を唱えるようになり、1221年(承久3年)に「承久の乱」を起こしましたが、失敗に終わりました。
刀において重要なのは、後鳥羽上皇自らが「菊御作」と呼ばれる刀を作刀し、「御番鍛冶」(ごばんかじ)を創設したことです。
1208年(承元2年)、後鳥羽上皇は地方から優秀な刀工を京都に招致して鍛刀させました。
刀工は地位が向上し生活が安定。
身分の低い者が出世する一番の近道は刀工になることだと言われ、刀工の志願者が増えて技術も上がり、日本刀は黄金時代を迎えることとなったのです。
後鳥羽上皇は、自分に味方する武士達に御番鍛冶が作った刀を配り士気を高めたと伝えられています。
鎌倉幕府設立とほぼ同時期に即位したのが、「後鳥羽天皇」です。
無類の刀好きとして有名ですが、皇位継承のしるし、三種の神器のひとつ「草薙の剣」は、「壇ノ浦の戦い」の際に安徳天皇と共に海に沈んだため、剣がないままに即位しました。
1198年(建久9年)に退位して上皇となり、刀好きが高じて自らが鍛刀。
後鳥羽上皇が鍛錬した刀は、銘の代わりに天皇家の紋章の菊紋が切られたため、「菊御作」(きくごさく)または「御所焼」(ごしょやき)と呼ばれました。
文化財としての価値も高く、御物(ぎょぶつ)が2振、重要文化財に4振が指定されています。
番鍛冶とは、1207年(承元元年)から1221年(承久3年)にかけて、後鳥羽上皇が京の内外から選抜した優秀な刀工のことです。
備前国(現在の岡山県)の鍛冶は、「則宗」(のりむね)、「宗吉」(むねよし)、「行国」、「助成」など26名、山城国(現在の京都府)は「粟田口国友」、「粟田口国安」、「粟田口久国」など7名、備中国(現在の岡山県西部)は「貞次」、「恒次」(つねつぐ)など4名、美作国(現在の岡山県北東部)は2名、大和国(現在の奈良県)、伯耆国(現在の鳥取県)、豊後国(現在の大分県)では各1名が選ばれています。
備前国の鍛冶、特に「福岡一文字派」からの指名が多く、優秀だったことが分かるのです。
鎌倉時代中期とは、1222年(貞応元年)から1281年(弘安4年)までの約60年間のこと。
1232年(貞永元年)執権「北条泰時」は、武家の最初の体系的法典「貞永式目」(御成敗式目)を制定します。
また執権「北条時頼」のときには皇族「宗尊親王」を将軍に迎え、実権を握ることに成功。
しかし、執権「北条時宗」のときに、元(モンゴル王国フビライが建国した中国王朝)が侵攻、つまり元寇(蒙古襲来)が起こったのです。
元は、1274年(文永11年)に「文永の役」、1281年(弘安4年)に「弘安の役」と2回も襲来。
しかし鎌倉幕府はこの2回とも元を追い払うことに成功しました。
刀としては、鎌倉幕府の所在地、鎌倉で作刀が開始されたことが重要です。
鎌倉幕府は、政治、経済、文化、軍事を朝廷の所在地である京都以上にするために、すべての機能を鎌倉(相州の神奈川県)に結集。
刀工も、兵力増強のために優秀な人材を招致しました。
それは、山城国「粟田口国綱」、備前国「備前三郎国宗」、備前国・福岡一文字派の「一文字助真」(いちもんじすけざね)の3名。
こうして、鎌倉鍛冶の基礎が築かれることとなったのです。
山城国の粟田口派は、三条派より200年後に誕生した一派です。
粟田口国綱は、粟田口派の始祖「粟田口国家」の六男。
6人兄弟全員が名工で、長男・粟田口国友、次男・粟田口久国、三男・粟田口国安は御番鍛冶に選ばれています。
1250年(建長2年)、粟田口国綱は鎌倉に招致され、鎌倉鍛冶の礎を築きました。
作風は、京都時代は優美でしたが、鎌倉に出てからは身幅が広く、焼幅も広くとても優壮。
刀剣史上他にない名工揃いの一派でしたが、南北両朝の戦乱の際に京都は焼け野原となり、粟田口一派は約150年の歴史を持って滅亡することになったのです。
備前三郎国宗は、備前長船派の分派「真宗派」の初代「国真」の三男。
真宗派は、備前長船の隣地「和気庄」にあったと言われています。
作風は反りが深くて品格高く、刃文は備前伝が得意とする丁子乱れ。
1250年(建長2年)、わずか18歳でその腕を見込まれて鎌倉に招聘され名を上げました。
なお、備前三郎国宗の嫡男は、のちに相州伝の実質的な祖となる「新藤五国光」(しんとうごくにみつ)です。
備前三郎国宗は、58歳のときに故郷の備前へと戻りましたが、1261年(文応2年/弘長元年)に北条時宗にもう一度呼ばれて、82歳にして鎌倉へ入府し鍛刀したことが秘伝書に記されています。
「一文字助真」は、福岡一文字派に属した人物です。
御番鍛冶となった「助成」の子、または「助房」の子と言われています。
1259年(正元元年)、粟田口国綱、備前三郎国宗よりも少し遅れて鎌倉に入府し、「鎌倉一文字」一派を樹立しました。
身幅が広く、重ねはやや厚く、猪首鋒/猪首切先(いくびきっさき)と言う力強い作風。
華やかな大丁子乱れは、福岡一文字派最後の全盛期と言われるほど見事です。
鎌倉時代後期とは、1282年(弘安5年)から1333年(元弘3年[南朝]/正慶2年[北朝])までの約50年間のこと。
元寇は内戦とは異なって、没収地のない防衛戦だったので、御家人達に十分な恩賞を与えることができず主従関係に亀裂を招くことになったのです。
このような情勢のなか、即位したのが「後醍醐天皇」。
後醍醐天皇は、鎌倉幕府を討つ意志を固め、皇子「護良親王」や「楠木正成」、「足利尊氏」、「新田義貞」を味方に付けます。
そして、ついに新田義貞が本拠地の鎌倉に攻め込み、鎌倉幕府は滅亡したのです。
刀剣においては、「相州伝」(そうしゅうでん)が完成します。
相州伝の始祖となったのは、鎌倉鍛冶・備前三郎国宗の子「新藤五国光」。
新藤五国光は、備前伝と山城伝の両方を修得し、新しい秘法を作り出しました。
そこに、鎌倉幕府から、蒙古に打ち勝つ強い刀を作ってくれと言う依頼が来るのです。
これに取り組んだのが、新藤五国光の弟子「行光」(ゆきみつ)と、その子「正宗」(まさむね)。
正宗は、新藤五国光の秘法に加えて、苦心して研究を重ねつ部屋に立て掛けておいたところ、コトンと刀が倒れ、近くに置いてあった火鉢の足を切り落としました。
見ると、その足が鬼の形をしているではありませんか。
それ以来、北条時政は病が治り、鬼に苦しめられる悪夢も見なくなったとのこと。
「天下五剣」に数えられる、とても縁起の良い名刀です。
正宗の刀は国宝が9振(太刀4振、短刀5振)、重要文化財は10振もあります。
行き違い等々の切はご容赦下さいませ。
本所亀沢町6代末孫。