豊臣秀長が紀伊・和泉・大和の三国を領有する百万石の...
天正13年(1585年)、豊臣秀長が紀伊・和泉・大和の三国を領有する百万石の太守として郡山城に入り本格的な城づくりをはじめました。
秀長のあと、文禄4年(1595年)増田長盛が二十万石で入城し、城下町全体を取り巻く全長50町13間(約5.5km)の外堀の普請を行いました。
すなわち、東辺では秋篠川の流れを奈良口で東へ付け替え佐保川に合流させて旧流路と外堀として利用し、西・南・北辺では丘陵の断崖や谷や凹地を巧みに利用して堀を作りました。
堀の内側には土塁を築き、高さは高いところで約4.5mもあったといわれています。
かつて城下町を取り囲んでいた外堀も住宅などに転用され、その多くが失われましたが、水路・溜池・緑地などとしてかつての外堀の面影を残している部分も少なくありません。
そこで、その部分に石碑を建立し、また、外堀緑地公園、治水対策の特定保水池などの整備を進めることで、外堀の存在を後世に伝える活動を行っています。
大和郡山市観光協会の案内板より。
名前 |
蛇ヶ池外濠跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.0 |
地形から外壕・池跡と分かります。