式内社・三屋神社に比定されている古社。
正面・背面二間、側面二間の大規模な大社造。
正面右側に御扉が付く、正統的大社造。
身舎、階隠ともに銅板葺。
床下に心御柱があり、正面・背面の宇豆柱は側柱より太く外に出ている。
廻縁は四周する。
宇豆柱は礎石から建ち棟木まで一本で支えている。
組物、彫刻等は一切なく、内法長押に六葉釘隠の痕跡が残っているだけである。
階隠は身舎から独立し前縁柱と共有している。
随身門あり。
一ノ鳥居「明和八辛卯(1771)」、拝殿前灯篭「天保十二丑(1841)」が残る。
建立は「島根県近世社寺建築調査報告書」によると社伝として貞享二年(1685)と記されているが、江戸時代後期頃か。
三屋神社みとやじんじゃ島根県雲南市三刀屋町給下865祭神大己貴命素盞嗚尊稲田姫命脚摩乳命手摩乳命出雲の神がずっらと並んでいます大巳貴命の領域を標示する門があったからの命名又三屋をみやけと訓して屯倉との説も。
出雲國、西出雲王家の神門臣家が一番最初に大国主、8代目大穴持の八千矛を祀った神社。
後に国造職の失職を不安に感じた現出雲大社の宮司家が、地元で豪族として依然として強い力を持っていた東出雲王家の富家、西出雲王家の神門臣家の元両王家に「作って貰った」のが出雲大社。
此処が本当の元出雲社です。
故に神紋が出雲大社と同じ花菱紋になっています。
昔は素戔嗚なんて出雲大社には祀られてなかったのですよ。
ミトヤは、神門屋から来ていると思われます。
古くから郡内一宮として崇敬を集めていた古社です。
裏山が古墳群。
神社と古墳のつながりを感じさせる。
島根縣神社概説より郷社 三屋(みとや)神社 飯石郡一宮村鎮座祭神 素盞嗚命(すさのおのみこと) 大己貴命(おおなむちのみこと) 外五柱例祭日 十月十九日由緒概要大國主命の國土經營上の一根據地とせられしところにして御館常に存在せし由緒深き地なれば其の所以を以て當社を鎭齋せしと傳ふ。
故其の創建は遠く太古にあり、延喜二年十一月十六日現在の地に再建せしものにして三刀屋の鄕の總氏神として又、一國一宮として一宮大明神と稱し舊藩主代々の御信仰厚く、社領を寄進し、修繕費を備え置かれ領主の参拜等あり、一般の崇敬殊に厚き社なり。
本殿は大社造。
三亜神社(みややじじんじゃ)【ビディング社】みかや【神への犠牲】オーナーの高貴な生活、スーザンウズン、プーティアンの生活、足擦り生活、手擦り生活【宿泊】雲南市水戸屋町宮屋865島根県稲荷神社あり2007年10月10日(原文)三屋神社(みとやじんじゃ)【比定社】御門屋社【祭神】大己貴命、素盞嗚尊、稲田姫命、脚摩乳命、手摩乳命【住所】島根県雲南市三刀屋町給下字宮谷865稲荷神社あり平成27年10月10日 参拝。
式内社・三屋神社に比定されている古社。
郡内の筆頭神社として、一の宮とも称されている神社。
出雲国風土記には、「御門屋社」とあり、「所レ造二天下一大神之御門即在二此処一 故云二三刀矢一」つまり、祭神・大己貴命の領地の門があった場所で、正倉(みやけ)があった。
よって、社名「三屋」は、通常「みとや」だが、延喜式写本によっては、「みやけ」と訓のあるものもある。
神社背後の高丸山には一群の古墳があり、多くの副葬品が出土している。
社伝によると、古代は、この古墳上に社殿があったようだ。
境内はかなり広く、境内の周りの木には、垣が設けられ、幾つかの石の小祠も祀られている。
拝殿は、正面から見る感じと側面では、やや大きさに違いを感じる。
境内左手隅には、境内社が二社。
祇園社と稲荷社がある。
三屋神社(みとやじんじゃ)【比定社】御門屋社【祭神】大己貴命、素盞嗚尊、稲田姫命、脚摩乳命、手摩乳命【住所】島根県雲南市三刀屋町給下字宮谷865稲荷神社あり平成27年10月10日 参拝。
みとやじんじゃ式内社 出雲國飯石郡 三屋神社 旧郷社 郡内の一の宮 御祭神:大己貴命 (配祀) 素盞嗚尊 稲田姫命 脚摩乳命 手摩乳命天平5年(733)2月30日「三門屋社」『出雲国風土記』 延喜以前は背後の峯寺弥山(高丸山)にある古墳の上に鎮座していたという。
三屋神社由緒略記によれば、所造天下大神大穴持命が八十神を平定した後、ここに宮居を定め、国土経営の端緒を開かれたという伝承のもとに、大穴持命に縁りある出雲臣・神戸臣等がここの地に大神の御陵を営みまた神社を創建、神戸を置いて大神の宮の御料を調進した故に、この大神の宮垣の御門と、その神戸とに因んで御門屋社と名付けたとある。
感慨深い処です。
さんや神社@日本古代正史 原田常治著 P246「延喜二年(902)の棟札に『奉再建一宮大明神社殿一宇』とあり、裏書に『誠忝(まことにもったいなくも)当社者(は)素戔鳴尊(すさのおのみこと)之御子大己貴命(みこと)天下惣廟(そうびょう)神明也』と明記されている」との記録があって、平安時代にはすでにこの社が一の宮で、ここが大己貴の宮殿すなわち惣廟地として広く知られていた。
出雲風土記には「御門屋(みとや)社」と記されている。
これが、神亀3年に大国主政庁跡をわからなくするために、「三屋(さんや)社」と改名させたり、御門屋川を「三刀屋川」にしたり、いろいろ細工をして、消してあった。
裏山の「高丸山」にあった前方後円墳が「素佐之男」の末子「須世理姫」の古墳である。
この神社の宝物に、「稲田姫の手鏡」と須世理姫が使ったと思われる「漢式六獣鏡」がある。
斐伊川流域における大己貴伝承-その1-当社は三屋と書いて「みとや」と読むが、『出雲国風土記』によれば「天(あめ)の下をお造りなされた大神の御門(みと)がすなわちここにある、だから三刀矢という。
神亀三年(726)、字を三屋と改めた」とあって、これは和銅六年(713)に諸国の郡や郷名を二文字の好字で表せとの詔 勅(しょうちょく)に対応したものである。
この詔勅はすぐには地方に行き届かなかったようで、神亀三年に地方を統括する民部省(みん ぶ しょう)から口宣があって、やっと重い腰があがったことが、『出雲国風土記』のあちこちに神亀三年郷名改変の注記がなされていることからわかる。
名前 |
三屋神社 |
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ジャンル |
/ |
電話番号 |
0854-45-3051 |
住所 |
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関連サイト |
http://www.jinja-net.jp/jinjacho-shimane/jsearch3shimane.php?jinjya=6383 |
評価 |
4.1 |
【比定社】🅿あり(指定はないが神社下の広場で問題ないかと)久し振りに向拝に龍の彫り物を見た気がする。
時の流れを感じさせる雰囲気あり。