藤原氏の流れをくむ羽床家が城主。
羽床氏は讃州藤家の祖、中御門中納言藤原家成の孫、資高が治承年間に荘司と成り地名の羽床姓を名乗りました。
その子重高がここに羽床城を築城したと伝わっています。
菅原、滝宮、北村、小野、羽床上、下、牛川、西分、東分の九ヶ村を管領しました。
しかし承久の乱では後鳥羽上皇側についた為、棟梁の地位を香西氏に奪われました。
羽床氏は陣代として勢力を保ちました。
南北朝時代には政長が武勇で聞こえた羽床七人衆を率いて南朝方としてその名が知られました。
天正七年の長宗我部元親の讃岐侵攻時は土佐軍一万ニ千に対し資載の勢力七百五十余で八度の合戦を行ったが多勢に無勢で押され続け、羽床勢は城に立て籠もった。
長宗我部元親は羽床勢の勇猛果敢な奮戦ぶりを称え、将兵から領民に至るまで処分しないことを約束。
天霧城の香川氏の仲介もあり資載は受入れ次男弥三郎資吉を人質に出し開城しました。
本領安堵された資載は元親軍に加わり十河城攻略に参加するが陣中にて病死します。
元親は人質と成っていた資吉を羽床城に帰し家督を継がせた。
長宗我部元親、讃岐除封後は秀吉の家臣仙石権兵衛久秀に従い島津征伐に従軍し豊後国戸次川の合戦にて討死しました。
これにより羽床氏は滅亡、城は廃城と成りました。
羽床城は中世の典型的な平山城で標高85m、比高23m、周囲約250mの城山の頂上付近に造られております。
周囲は花崗土の崖状で成っており、いくつかの帯廓を区画され空堀や土塁で守りをかため南側土塁には虎口を見ることが出来ます。
本丸、ニの丸と広く頂上部に設けられています。
雑草や雑木、竹が生え見通しがききませんが遺構は明確に確認出来ます。
名前 |
羽床城跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト | |
評価 |
4.0 |
とても登りやすい城跡でした。
主郭部からの切岸は高さがありました。
各所に看板もあり、遺構もわかりやすかったです。
駐車場は無かったようです。