岩手の里から出羽街道を通って出羽国の尾花沢へ向かっ...
鳴子遊歩道を2022.11.03撮影しました。
国道脇にあるひっそりとした場所。
訪れる人は少ないけど、芭蕉がさらに好きになります。
30.出羽越え【芭蕉自筆影印】①おくの細道紀行文南部道者る可に見やりて 岩手の里耳泊る 小黒崎 水の小嶋を過て なるこの湯より尿(シト)前の関耳可ゝ里て 出羽能国に越無と春 此道旅人稀なる處な禮者 関守にあやしめら禮て 漸(ヨウヨウ)尓して関をこ春 大山をのほ川て 日既暮遣禮者 封-人の家を見可氣て舎リを求ム 三日風-雨あ禮て よしなき山中に逗留す(南部道はるかに見やりて、岩手の里に泊る。
小黒崎、水の小嶋を過て、なるごの湯より尿(シト)前の関にかゝりて、出羽の国に越むとす。
此道旅人稀なる処なれば、関守にあやしめられて、漸(ヨウヨウ)にして関をこす。
大山をのぼつて、日既暮ければ、封-人の家を見かけて舎りを求む。
三日風-雨あれて、よしなき山中に逗留す。
)蚤虱馬能尿(バリ)春る枕もと(蚤虱馬の尿(バリ)する枕もと)あるしの云 こ禮より出羽の国尓 大山を隔て 道さ多可ならさ禮ハ 道志るへの人を頼ミて越へきよしを申 さら者登云て 人を頼侍連者 究-竟(クッキョウ)の若もの 脇指をよこ多へ 樫の杖を携て 我ゝ可先尓立て行 介ふこ楚必あやうきめにもあふへき日な禮登 辛(カラ)きおもひを那して 後耳ついて行(あるじの云、これより出羽の国に、大山を隔て、道さだかならざれば、道しるべの人を頼みて越べきよしを申。
さらばと云て、人を頼侍れば、究-竟(クッキョウ)の若もの、脇指をよこたへ、樫の杖を携て、我ゝが先に立て行。
けふこそ必あやうきめにもあふべき日なれと、辛(カラ)きおもひをなして、後について行。
)あるしの云尓た可ハ春 高山森ゝ登して 一鳥聲き可春 木の下闇茂りあひて 夜ル行可こ登し 雲端尓土婦る心地して 篠の中踏分ゝゝ 水を王多り岩尓つま付いて 肌(ハタヘ)尓つめ多き汗を流して 最上乃庄尓出ス 彼案内せし於のこの云やう この道必不用の事有 つゝ可なう送りまいらせて 仕合(シアハセ)志多りと よろこひて王可連ぬ 跡尓聞てさへ 胸登ゝろくのミ也(あるじの云にたがはず、高山森ゝとして、一鳥声きかず、木の下闇茂りあひて、夜る行がごとし。
雲端に土ふる心地して、篠の中踏分ゝゝ、水をわたり岩につまづいて、肌(ハダヘ)につめたき汗を流して、最上の庄に出す。
彼案内せしおのこの云やう、この道必不用の事有、つゝがなう送りまいらせて、仕合(シアハセ)したりと、よろこびてわかれぬ。
跡に聞てさへ、胸とゞろくのみ也。
)【句碑】①尿前の関宮城県大崎市鳴子温泉尿前R47から下る狭い車道有蚤虱馬の尿する枕もと②封人の家山形県最上郡最上町堺田59-3蚤虱馬の尿する枕もと【芭蕉像】①尿前の関②封人の家【芭蕉訪ね地?】①分水嶺陸羽東線堺田駅前《施設・句碑拡大写真はgoogle検索「芭蕉句碑の解読」》
出羽と陸奥の国境に位置する関所です。
奥の細道で芭蕉と曽良が、この関所で怪しまれて、なかなか通してもらえなかったと伝えられています。
石段や復元された門など、かなり大きな関所だったことが分かります。
鳴子峡を越えて、堺田の封人の家までは、険しい道のりで、難所だったようです。
芭蕉の銅像や句碑もあり、奥の細道をたどる旅には、欠かせない場所だと思いました。
山形県側から国道を下ってくると、坂の途中から脇道に急旋回することになるので、十分減速して探してください。
24時間、いつでも散策、見ることが出来ます。
温泉街からちょっと散歩するにはちょうどいいところかな。
そこから旧街道に行くには、割と本格的に歩く準備が必要ですね。
松尾芭蕉と曽良は「おくのほそ道」の旅で、岩手の里から出羽街道を通って出羽国の尾花沢へ向かった。
ところが通行手形を持っていなかったため、尿前の関で厳しい取り調べを受けることになった。
このことは「おくのほそ道」本文および曽良日記に記されている。
『なるごの湯より尿前の関にかゝりて、出羽の国に越んとす。
此路旅人稀なる所なれば、関守にあやしめられて、漸として関をこす。
』(おくのほそ道)関守に怪しく思われて、なんとか関を越えることができたもの。
『一リ半、尿前。
シトマヘヽ取付左ノ方、川向ニ鳴子ノ湯有。
沢子ノ御湯成ト云。
仙台ノ説也。
関所有、断六ヶ敷也。
出手形ノ用意可有之也。
』(曽良日記)関所では、事情を話すだけでは難しかった(断六ヶ敷也)、通行手形が必要であったと記す。
芭蕉たちが次の宿泊地である「封人の家」で詠んだ歌「蚤虱 馬の尿する 枕もと』(松尾芭蕉)
自然豊かな遺跡、芭蕉が難渋した関所。
日本こけし館への登り口手前の脇道か、花渕山バイパスにちょっとだけ入り直ぐ脇道に逸れると簡単に辿り着けます。
訪問の際はGoogleマップを活用しましょう。
尿前の関駐車場に車を停めると、その後の徒歩での登り降りは大変です(笑)
鳴子オルレオープンおめでとうございます!(^^)
周辺の幹線道路に尿前の関の看板が目立つように建っているので、随分立派な場所だろうと期待して訪問しました。
1689年5月、松尾芭蕉がここで「蚤虱 馬の尿する 枕もと」を詠んだことになっている。
今ここはなんて寂しい場所なんだろうと思う。
金成から、奥の細道をたどって…尿前の関にきました。
こんな山道歩ったなんて…信じられないです。
歴史をかんし。
「しとまえのせき」と読む。
宮城→山形だと比較的降りやすい関所。
逆だとわかりにくい。
こけし館の近くから下ると関所(番所)跡。
芭蕉も曽良もこんな道歩いて行ったんだなぁと嘆息。
他江戸期の旅人ご苦労さまでございました。
仙台伊達藩は財政赤字続きで、領民にも旅人に厳しかったらしい。
他領で使えん角銭鋳造して乗り切ろう精神。
んで市場に流通させる→貨幣価値下がる→物価上昇→鋳造禁止→財政赤字と、江戸期ずっとこんな負の無限ループ。
いやはやベネズエラやジンバブエを笑えん伊達家をや。
☆ この関越えて新庄藩領封人の家(関守さん)に泊まる俳諧師。
この後酷い目に遭うのだが、彼等はまだ知る由もない。
名句は生まれたがなー笑。
関所の柵?みたいのと芭蕉翁の像と説明板のみ。
できれば休めるベンチとかがあればいいかも。
山形方面から来ると入り口が分かりにくい関所を思わせる柵と入口があり、芭蕉の像と解説の表示があります。
山形方面から来ると入り口が分かりにくい関所を思わせる柵と入口があり、芭蕉の像と解説の表示があります。
元禄2年(1689)5月15日、松尾芭蕉と曽良は仙台藩の番所がある〔尿前の関〕を通過した。
現在、関所跡には芭蕉句碑、芭蕉像が建てられている。
蚤虱馬の尿する枕もと 難所の〔中山越〕への道も続く。
(奥の細道 ⇒ 封人の家)
名前 |
尿前の関跡 |
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住所 |
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関連サイト | |
評価 |
3.5 |
管理人さんの解説がよかったです。