道は狭く駐車場はありません。
台場の位置から下を見れば海岸線、上を見れば山。
今でも狭いところに線路と国道が走っていることから地理的な重要性がよくわかります。
①箱館戦争の舞台の一つ。
②植林されていてわかりづらいが土塁らしきものが確認できる。
③説明文より→箱館戦争の際、最大の激戦地となった地である。
箱館の押付台場と相対し、箱館湾を固める意味で既に前幕領時代(1799~1821)に構築され、南部藩が守備したという。
安政元年(1854)、幕府直轄となり、箱館奉行竹内保徳らにより、ここの増強が幕府に上申された。
明治2年(1869)、幕府脱走軍(榎本軍)がこの土塁を修築し、大鳥圭介以下500名がここを固めたが、同年4月の官軍の猛烈な攻撃に遭い、激しい戦いののち、ついに脱走軍は敗退せざるを得なくなり、七重浜まで退却した。
この戦いで衝鋒隊長・天野新太郎以下、死傷者70余名を出したという。
現在、第一台場と附属火薬庫跡(前幕領時代構築)、第二台場(幕府脱走軍構築)の遺構が確認されている。
北斗市矢不来(やふらい)の急傾斜の上にある台場跡(砲台跡)で、幕末期の外国船からの防備を任された南部藩によって築かれました。
ここは函館湾の入り口にあたり、対岸の函館山の下にあった押付台場と対をなす施設です。
ただ、矢不来台場と押付台場の距離は7㎞もあり当時の大砲の射程では悠々と真ん中を船が通過したことでしょう。
この台場が戦略的価値を上げたのが、官軍が乙部に上陸したのち南下して函館に進軍する途中の最後の難所であり、これを越えると函館平野が広がるため、重要な拠点でもあります。
明治2年(1869年)4月29日にこの台場をめぐる激しい戦いが行われ、持ち堪えられなくなった旧幕府軍は五稜郭まで後退しました。
江差から函館に抜ける二股口を死守していた土方隊は、矢不来台場が突破されたことを知り、自分たちの退路がなくなる恐れから五稜郭へ退却しました。
ここを突破されたことが箱館戦争の最終局面に向かうターニングポイントとなりました。
名前 |
史跡 矢不来台場跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.9 |
道は狭く駐車場はありません。
でも眺めは良いです。