佐久間さん、こんなとこまで追われて。
佐久間さん、こんなとこまで追われて。
武蔵は隠れ家的集落です。
織田家筆頭家老「佐久間盛信」が追放されたのは高野山のはず。まさかこんな場所に、墓があるとは知らなかったね。奈良十津川に遊びに来てR168を走っていると、たまたま「佐久間盛信の墓」との看板を発見した。「へぇ~!織田武将の、あのヒトかな?!」少し寄り道をしました。しかし、この武蔵集落への登り口を見落して、十津川温泉まで通り過ぎてしまった。こりゃたいへん大変u003c笑笑佐久間盛信と云えば…数々のエピソードがあるヒトです。○朝倉義景への追撃を怠たり信長から叱責中「そう言っても“我々のような優秀な家臣団”はなかなか居ませんぜ!」と口答えして、信長をさらに“激オコ💢プンプン”にしてしまう。○三方ヶ原の戦いの援軍に出向き、信盛は武田軍を目の当たりにして、真っ先に戦わず浜名湖付近まで逃亡し、織田の面目丸潰れにした。さすが「退き佐久間」の真骨頂ココにあり。○石山本願寺攻略の総大将を任された信盛は、力攻めも謀略も仕掛けず、丸五年たいした成果なく過ごす。勿論、最強雑賀衆が鉄砲で寄せ手を完全排除、恐怖心はハンパじゃなかった。やがて信盛は、信長から「十九か条の折檻状※」を突きつけられた。信盛はこの手紙を見て、もはやこれまでかと思った。嫡子・信栄とともに頭を丸め高野山に入りました。しかしそこも追われ、自分の臣下にも見捨てられ、熊野の地で亡くなったときには信栄と、小者一人しかいなかった。天正十年一月二十四日。熊野山中にて哀れ没。※なお『佐久間軍記』には、この追放劇について「誰か(明智光秀)の讒言でもあったのでは云々」といったことが書かれています。○集落で特筆すべきは、お墓の近くにある「武蔵小学校」旧いまま保存されていること。レトロ。ここ一見の価値✨がありますよ!
嘗ての織田家重臣も国を追われ、高野山を追われ、十津川に辿り着く。
隣には楠正勝墓所もある。
嘗ての織田家重臣も国を追われ、高野山を追われ、十津川に辿り着く。
隣には楠正勝墓所もある。
名前 |
佐久間信盛の墓 |
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ジャンル |
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住所 |
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営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
関連サイト |
https://yamatoji.nara-kankou.or.jp/03history/01historic_sites/04south_area/sakumanobumorinohaka/ |
評価 |
4.3 |
道の駅 十津川郷から車で30分程の場所ですが、途中の村道は舗装もしてあり交通量も少ないのでまだ良いですが、道幅がそれ程広くも無いです。
その村道を上った先に墓所のある村があります。
墓所は村の真ん中辺りに建つ十津川村教育資料館の建物の間(ここのポストにパンフ的な物が有り)を抜けるように進んだ先にあります。
道を進んでいくと標識的な物があるのでわかると思います。
資料館は元々旧武蔵小学校だったそうで、外観も昔の古き良き小学校のままです。
そこの運動場と思われる広場が駐車スペースになります。
お墓はその運動場から階段等で少し下った場所にあります。
長閑で静かな場所に、佐久間信盛と楠木正勝の墓所がありました。
手入れもきちんとされていて感心します。