大王墓としては最後の前方後円墳になる。
丸山古墳(畝傍陵墓参考地) / / .
日本有数の大きさの前方後円墳の1つです。
古墳の発見が比較的最近で、方墳部分の一部が道路になっています。
後述しますが、これは欽明天皇の真陵である可能性は低いです。
先日久々に訪れました。
日本で6番目、墳丘上に立ち入れる(後円部除く)古墳としては造山古墳に次いで2番目の規模と、古墳好きにはたまらないスポットです。
歴史の中心地にあり、あの著名人が眠っているかもしれないという要素もありロマンがあります。
さて、その被葬者像に関しては欽明天皇・蘇我稲目が候補にあり、様々な書籍やここのコメント欄などでも「欽明天皇の真陵とする説が有力」といった言及がよく見られますが、全くもって有力ではないです。
梅山古墳(現・欽明天皇陵)の方が欽明天皇陵としての妥当性があります。
丸山古墳は、蘇我稲目の墓である可能性の方がよっぽど有力です。
詳しくは、下記文献を閲覧されると良いでしょう。
相原嘉之「甘樫丘をめぐる遺跡の動態 ―甘樫丘遺跡群の評価をめぐって―」(2015)以下、上記文献をもとにざっくりと根拠を並べてみます。
・日本書紀の記述欽明天皇は檜隈坂合陵に葬られ、推古20年(612年)には陵の上に砂礫を葺き、氏ごとに大柱を建てたとある。
梅山古墳からは明和8年(1771年)、古墳南側の小字「池田」から大柱が発見されたことや、墳丘に葺石がみられる事など、書紀の記述と一致する。
一方、丸山古墳にはそれらの痕跡が現状確認されていない。
・立地欽明天皇陵はその名の通り「檜隈」の地に築かれたとみられ、梅山古墳は檜隈にあるが、丸山古墳は檜隈より北の「軽」に築かれている。
軽を含む甘樫丘周辺一帯は蘇我氏の勢力圏であり、軽には蘇我稲目の邸宅の一つ「軽の曲殿」が存在した。
蘇我馬子の墓として確実視されている石舞台古墳は馬子の邸宅があったとされる島庄付近に、また蘇我蝦夷の墓として築かれた可能性が高い小山田古墳も蝦夷の邸宅があったとされる甘樫丘付近に築かれており、邸宅と墳墓を同範囲に築いていた傾向がみられる。
一方、梅山古墳が築かれた檜隈には天武・持統天皇陵として確実視される野口王墓古墳(檜隈大内陵)、文武天皇の真陵の可能性が高い中尾山古墳(檜隈安古岡上陵)が存在し、檜隈の名を冠する天皇陵が同地域に集中して築かれたこととなる。
・二つの石棺丸山古墳の石室には、奥に7世紀初頭の家形石棺、手前脇に6世紀後半の家形石棺が安置されている。
日本書紀には蘇我稲目の娘にして欽明天皇の后の一人、堅塩媛を檜隈大陵へ改葬したとの記述があり、二人の年代とおおよそ一致する二つの石棺と追葬の形跡はその記述を裏付けるものとして、丸山古墳=欽明天皇陵説の根拠となっている。
ただしその場合、元々の被葬者である欽明天皇の棺をわざわざ移動させ、后にすぎない堅塩媛の棺を奥に据えたことになる。
以下持論だが、この石棺の不自然な位置関係に対して丸山古墳=欽明天皇陵説に立った立場から“それだけ蘇我氏の力が大きかったから”との説明がなされることがあるが、そうであるならば同説の根拠の一つである“いかな大豪族とて天皇陵をしのぐ墳墓を築くのは不自然”という主張と矛盾するだろう。
(稲目と馬子の時代の力関係に差異はあると思われるので、完全に矛盾するとはいえないが)書紀その他に稲目の墳墓に関する記述は無いが、丸山古墳=蘇我稲目墓説によれば、古い石棺は欽明天皇と没年がほぼ等しい蘇我稲目の棺で、新しい石棺は堅塩媛を梅山古墳に改葬する前の、元々の棺であったと解釈される。
つまり堅塩媛は初め父の墓である丸山古墳に追葬されたのであり、同石室内にあってはさすがに天皇の后>蘇我稲目であるので、棺がわざわざ移動されたと考えられる。
堅塩媛の初葬に関しての記述も存在せず、上記は全くの仮説にすぎないが、状況から組み立てられた不自然さの無い筋の通った考えであるといえる。
本仮説は梅山古墳の埋葬施設に追葬の形跡があるか無いかで状況が大きく変わるが、宮内庁が管理する現状でそれを確認することは叶わない。
以上の状況を鑑みると、丸山古墳は「欽明天皇の真陵とする説が有力」とは、とても言えません。
せいぜい「欽明天皇の真陵とする説もあるが、疑問点が多い」です。
雪景色の丸山古墳も非常に綺麗でした。
古墳時代後期の前方後円墳です。
奈良県で最も大きい前方後円墳なのに、それ程有名でない。
【Maruyama ancient tomb】奈良県の最大級の古墳の一つ実は裏からの眺めると全体の大きさが分かると思います。
お勧めです。
One of the biggest ancient tomb in Nara.from back side view is very good.
2019.12.06訪問 (表示板説明参照)前方後円墳ですが後円墳は林に覆われていて前方部側は木は全く無いです。
実際に墳丘を歩くと壮大な古墳であることが判ります。
但し、後円墳は宮内庁管轄で立ち入ることは出来ませんでした。
丸山古墳(まるやまこふん)は奈良県最大の前方後円墳で、6世紀後半に築かれたと考えられています。
この古墳はあまりにも大きいため全体像が分からず、円墳と考えられていた時代もあった様です。
全長約310m、後円部径約150m、前方部幅約210m、周濠を含めると全長約420mにもなる超大型の前方後円墳です。
埋葬施設もそれに恥じない、日本最大の横穴式石室として知られています。
石室の規模については土の流入が激しいこともあり、現状でおおよそ全長28.4m、玄室長8.3m、羨道長20.1m。
両袖式の石室で、玄室の平面形は奥壁が幅広くなる羽子板状となっています。
玄室には2基の家形石棺が安置。
石棺の身部分は土に埋もれていますが、蓋の形態から、石室入口側(玄門側)に安置されているほうが古く、石室奥側(奥壁側)に安置されているほうが新しいと考えられています。
古墳の築造時期や石棺の様子などから、被葬者は欽明天皇や蘇我稲目などの名前が候補として挙げられています。
実際歩いたところ、墳丘の規模がかなり大きいことに感動した❗
大型の前方後円墳のスケールを体感できます。
後円部は陵墓参考地で立ち入ることはできませんが、前方部は歩き回ることができます。
草が枯れる冬に行くのがおすすめ。
畝傍陵墓参考地として、宮内庁が管理しているので後円部は立ち入り禁止です。
全体でみると奈良県では1番、全国でみても6番の規模を誇る大前方後円墳です。
前方部は自由に散策できますけど、ススキを始め草がボウボウで長ズボンがいります。
被葬者は長らく不明でしたけど、1991年にたまたま開口部が開いていて一般市民が中に入って写真撮影したものが、マスコミにて公開されました。
その内容からみて被葬者は、欽明天皇とその后である堅塩媛である事が、ほぼ確実となりました。
当時の権力者は蘇我氏で、蘇我氏以外にこんな大古墳を造れなかったでしょう。
先に葬った欽明天皇の石棺を手前にして、後に追葬した自分の娘、堅塩媛を奥にするなど、いかに蘇我氏が天皇を象徴として権力を握っていたか分かります。
因みにこの近くにある植山古墳が、科長の里に改葬される前の竹田皇子とその母親である推古天皇陵である事が分かりました。
推古天皇の母親は堅塩媛です。
娘である推古天皇は、母親の近くに眠りたかったのでしょう。
この事からも見瀬丸山古墳の被葬者は、堅塩媛と欽明天皇である事を裏付けていると思います。
丸山古墳も江戸時代ごろから治定には混乱していた。
天武・持統天皇陵ほか紆余曲折して今は欽明天皇陵が最有力視されている。
一般人の石室内部の写真で大騒ぎになったのは宮内庁も石室内部の入口が把握出来てなくて墳丘を囲むフェンスの外が崩落して入口が現れた事による。
又、石室内の二つの石棺の内、入口に近い方の石棺の蓋が屋根型だったのに対し、奥の石棺の蓋は少し平坦になっていた。
この事は定説からすれば奥の方が新しい事になる。
ということは、わざわざ入れ替えたことになる。
わざわざ移動してまで堅塩媛を奥に安置したのではという説がある。
そこまで蘇我氏が権勢を誇っていたのだろう。
墳丘長318mは奈良県では最大、全国でも第6位の規模の巨大古墳で、大王墓としては最後の前方後円墳になる。
欽明天皇・堅塩媛陵説が有力。
宮内庁管轄の天皇陵がぎっちぎちに管理され立ち入れないのに対して、ここは後円部以外は自由に立ち入れまるで丘の上のピクニック気分。
国道からはよくみえるし、近鉄岡寺駅からも近く、意外と無名な古墳なのですが、超絶お勧めです。
住宅街の中にあるので駐車スペースはありません。
徒歩で行くことをお勧めします。
とても綺麗な前方後円墳です。
近畿で観れる前方後円墳では一番かもしれません。
墳丘長318mの前方後円墳、築造時期は6世紀後半と推定。
宮内庁により陵墓参考地(被葬者を特定できない皇族の墳墓)に治定されている。
(被葬候補者:第40代天武天皇・第41代持統天皇)墳丘長318mは全国第5位の大きさで、奈良県下では最大。
墳丘長318mは奈良県では最大、全国でも第6位の規模の巨大古墳で、大王墓としては最後の前方後円墳になる。
欽明天皇・堅塩媛陵説が有力。
宮内庁管轄の天皇陵がぎっちぎちに管理され立ち入れないのに対して、ここは後円部以外は自由に立ち入れまるで丘の上のピクニック気分。
国道からはよくみえるし、近鉄岡寺駅からも近く、意外と無名な古墳なのですが、超絶お勧めです。
飛鳥(奈良)で最大級の三瀬丸山。此処は飛鳥時代のメルクマークとなる古墳ですよ。ggr earthで見れば、その巨大さが解るね。長318m 幅210m、巨大石(石舞台より大きい100t級とか)日本最大玄室…コレで大王墳で無いなら、なんぞいや? 近所の子供(良くやった!gj)が玄室迄入り込み、ニュースにもなった。写真も一般公開。「初めて天皇陵墓の内部構造が露わになった!! 」とか、大騒ぎだったらしい。仮に欽明陵墓として、継体直系の飛鳥新王朝?の創始者だったはずなのだが、何故か影が薄い。天皇陵をココまで破壊(多分人為的)した原因は、何だったのか。葺石迄ヘッペがされている。蘇我一族との関係の為なのか? まだまだ、謎が多すぎる。
1991年5月、ある一市民が、たまたま開口した石室の入り口から密かに入り、撮影した写真がある。
それは石室内部を写した衝撃的な写真だった。
石棺二基の内、一基には《廣庭命棺 辛卯年四月十七日薨 御年六十二歳》と彫られてある。
すなわち第二十九代欽明天皇のことである。
もう一基には《岐多斯比賣命棺 戊寅年四月十六日薨 御年丗七歳》とある。
欽明天皇の妃、堅塩媛のことである。
画像解析で石棺の文字が鮮明に浮かび上がった。
Cf.画像解析 古墳墓碑 池田仁三予想通りの結果だ。
堅塩媛の柩は、娘、推古天皇が父、欽明天皇と一緒に眠れるように、612年、元の陵から改葬されたものだ。
天武、持統天皇もそうだが、たとえ天皇といえど死後も一緒に暮らすのが一番の幸せに違いない。
名前 |
丸山古墳(畝傍陵墓参考地) |
---|---|
ジャンル |
|
電話番号 |
0744-47-1315 |
住所 |
|
営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
関連サイト |
https://www.city.kashihara.nara.jp/soshiki/1058/gyomu/3/2/1/3941.html |
評価 |
4.1 |
6世紀後半に築造された墳丘長約330m 後円部径150m 前方部巾約210mの全国でも6番目の規模の巨大前方後円墳です。
削平された前方部と後円部の一部に立ち入り可能です。
後円部上部に古墳説明板があり、側に南に向いた柵(立入禁止区域)がありそこが羨道部入口だと思います(塞がっていますが)。
石室は全長約28.4mで羨道部長20mの全国でも最大規模の石室を有し、玄室部に2基の家型石棺が安置されているようです。
大王級の古墳で間違いないのでしょうけど、墳丘は哀しいほどズタズタです。
でも全国で6番の規模って…すごい!