釈迦三尊を安置する堂として創建した。
歴史建造物と鹿、奈良ならではの景色が見れる場所。
国宝の阿修羅像が安置されています。
興福寺の諸堂は、三金堂、二塔、二円堂、三面僧房、講堂、食堂という構造になっています。
中金堂を中心に翼を出したような具合に東西金堂を置いて、本来なら一つの金堂にすべきものを三つの金堂にしています。
こういうことになるのも、藤原氏が莫大な寄進をしたからです。
中金堂は不比等の建立です。
東金堂は聖武天皇が建立、西金堂は光明皇后の建立で、三金堂がぞろいました。
三重塔は待賢門院が建立し、五重塔は光明皇后が天平二年(七三〇)に建立したといわれています。
北円堂は不比等の菩提のために建てられました。
旧円堂院(後の北円堂)は、藤原氏あるいは国家に対して非常に功績のあった不比等の菩提を弔うために、夢殿の形式で建てられたといわれています。
一辺が一丈七尺ですから、南円堂よりも少し小さい建物です。
現在の建物は鎌倉時代の初めの承元二年(一二〇八)に再興されました。
南円塔の本尊が納まっていた講堂は、仲麻呂が政権をとっていた天平十八年(七四六)に先批(母)のために造立したものです。
仲麻呂は父のために五條の栄山寺を建てました。
これも八角円堂で、実際に残っています。
仲麻呂の父の武智麻呂は南家を建てた不比等の長男です。
仲麻呂は母のためには講堂に不空羅索観音をまつり、父のためには栄山寺に八角円堂を造っています。
講堂は円堂ではありませんが、不空羂索観音は死者菩提のために建てられるという原則から考えると、不空羂索観音をまつったのは当然です。
それが南円堂に移されて現在の本尊になりました。
南円堂と不空羂索観音の両方とも死者菩提のためだということがわかります。
何も見なかった(原文)沒有看到什麼。
享保2年(1717)の大火で消失したそうです。
堂内には本尊釈迦如来像、薬王・薬上菩薩像、梵天・帝釈天像、八部衆像、十大弟子像、金剛力士像、四天王像などが安置されていたそうです。
西金堂(さいこんどう)。
東金堂(とうこんどう)は室町時代に再建、中金堂(ちゅうこんどう)は目下再建中ですが、西金堂もはやく再建されることが期待されます。
東金堂・中金堂・西金堂が揃っている壮観な興福寺の伽藍を見てみたいものです。
天平6年(734年)、光明皇后が母・橘三千代の一周忌に際し、釈迦三尊を安置する堂として創建した。
平安時代から鎌倉時代にかけて、3度被災したがその都度再建された。
その後江戸時代の享保2年(1717年)の火災による焼失後は現在まで再建されていない。
釈迦如来(体部は焼失し頭部のみ国宝館に安置、伝運慶作)、両脇侍(薬王、薬上菩薩、中金堂に両脇侍として安置)、梵天帝釈天(明治時代に流出しサンフランシスコアジア美術館蔵、奈良時代)、十大弟子(うち六体が国宝館などに安置、奈良時代)、八部衆(国宝館安置、奈良時代)、金剛力士像(国宝館安置、鎌倉時代、伝定慶作)、四天王(所在不明)、華原磐(国宝館安置、奈良時代)などが安置されていた。
Wikipediaより転載。
名前 |
西金堂跡 |
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住所 |
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評価 |
4.1 |
柵で囲ってるからはいれなぁーい!外から見ましょう。