結構、急な山道を登っていきます。
石棺がそまま残っている。
国宝の船氏王後墓誌が、古墳近くから出土しています。
大きな前方後円墳で、組み合わせ式石棺が見学可能。
4世紀前半に築造されたと思われる墳丘長130メートルの前方後円墳。
古墳のパンフレットを拝見し散策に伺いました。
墳頂まで登りましたがパンフレットは発掘当時の写真のようです。
状況が違い、整備したの?こんなに散らかしてという感じ。
それもまた、生々しい感じでいいのてすが…後円墳頂部には葺石、石室、謎の穴開き大石があります。
謎の穴開き大石。
なんなのでしょうか?(私にはわからなかったです)現地に伺い実物を拝見し、推理してみるのも楽しいかもです。
百聞は一見にしかずですしね…R165河内国分駅付近、国豊橋南詰交差点を東(大和川上流方面)へ。
国分神社を目標に。
道は狭くなります。
なんともミステリアスな古墳で江戸期に我が国最古の墓誌が出た注目されている古墳である。
船氏王後首の夫人とともに松岳山に葬られた事が書いてあり国宝に指定されている。
組合せ式石棺は芝山で採れた玄武岩の薄い板石や讃岐産の凝灰岩も使われている。
前後の立石の穴もミステリーだ。
何だろう?前後をロープを通し、祭祀の際に利用したのだろうか?穴の開く程見たけど解らないが後部から堅いものでゴリゴリ回転させてあけたのだろう。
石の面の後ろ側の穴の大きさの方が大きい。
ヒスイの勾玉のほうが上手だ。
ところで、この古墳も盗掘に遭っているが犯人は維新後に堺県令を務めていた税所篤だといわれている。
盗掘の際に立ち会った村惣代の記録に残っているのだとか。
けしからん話だ。
▪️国分神社境内に所在し墳丘への立ち入りも可能ですが、社務所への申告が必要となっています(形式的なものです)。
▪️墳丘の板石積み・石棺型式・立石・楕円形円筒埴輪などで全国でも特異な存在とのことで・・・。
▪️アクセス近鉄大阪線/河内国分駅より徒歩20分。
国分神社内・小高い山を登ったところに位置、大和川を北側に臨んだ古墳です。
雄大な川を挟んだ、向こう岸にも古代の遺跡が広がり、イマジネーションがかき立てられました。
あまり整備されてはいませんが、数分で登ってこられるのでそれほど苦労はありません。
この古墳の被葬者は長持形石棺の祖形ともいうべき石棺に眠っていました。
それが保存されていますが、この四側板は香川県高松市国分寺の鷲ノ山の石材が使われています。
見た目にも重そうな石室石材を瀬戸内海を越えて運んでくるのは、多大の労力と技術が必要とされます。
にもかかわらず、四世紀後半から五世紀初頭頃にかけて香川からここまで運ばれ、この古墳に用いられています。
どんな理由が背後にあるのでしょうか、古代史の謎です。
松岳山古墳や勝負山古墳は、大和盆地から流れる大和川が大阪平野に出た所に築かれています。
大和川は 瀬戸内海から大和へ入る交通路でしたので、両古墳の被葬者は大和川の水上交通や大和と大阪・瀬戸内の交通に関与していたと思われます。
そこに、古墳の心臓部の石材が香川運ばれてくるということは、香川の首長が松岳山古墳や勝負山古墳の被葬者と密接な関係を持っていたのでしょう。
香川の首長たちも大和に通じる瀬戸内の海上交通の一端を担い、こうしたかたちで初期ヤマト政権の一端を形成していたと考えることができるのかもしれません。
この古墳に埋葬された人物については、河内の有力な首長という説と、当時の大和政権の有力な一員とする説があるが、どちらにしても、後の古市古墳群と深く関わっていたとしている(藤井寺市HPより)この古墳に埋葬された人物が河内の勢力と深く関係し、ヤマト政権の中核と結びつき、それが時代を経て、百舌鳥古市古墳群へと繋がっていったのかもしれない。
そういう意味では、非常に貴重な遺跡だ。
組合式石棺を見ることができます。
見学の際には、隣接する国分神社社務所に申し出てください。
組合式石棺を見ることができます。
見学の際には、隣接する国分神社社務所に申し出てください。
名前 |
松岳山古墳 |
---|---|
ジャンル |
|
住所 |
|
関連サイト |
http://www.city.kashiwara.osaka.jp/docs/2014082300055/?doc_id=1539 |
評価 |
4.0 |
結構、急な山道を登っていきます。
行くには国分神社の社務所で許可をとってからにして下さいとのこと。