境内がきれいに整備されており気持ちいいです。
●大友天神社もとは大樹寺の建物で移築されたといわれる社殿。
「明治四十三年十月建之」。
鳥居は「明治百年記念」で「昭和四十三年十月」の奉納とあった。
御祭神 弘文天皇(大友皇子)鎮座地 愛知県岡崎市西大友町字天神十番地由緒 往昔 天智天皇の長子 大友皇子は壬申の乱に会い 従者長谷部信次等と此の地に流偶し 草庵を結ぶ皇子は「天性明悟にして雅より博古を愛ます」と懐風藻にあり 後に信次 皇子の為に一祠を創建奉崇し 之を天神宮と称し その所在地を大友と云い 村落を長瀬村と呼ぶ 明治九年供進指定村社例祭日 十月十八日この辺りの大友という地名は,大友皇子に因んだものだということである。
隣の小針町にある「小針1号古墳」は大友皇子の墓であるとの伝承がある。
「碧海郡誌」村社 大友天神社/鎮座 矢作町大字西大友/祭神 弘文天皇「碧海郡神社写真帖」矢作町大字西大友字天神鎮座/村社 大友天神社/御祭神 天照皇大神 弘文天皇/例祭日 十月十八日前者は大正5年,後者は昭和14年の刊だが,天照皇大神の合祀の由緒は不明である。
揃って弘文天皇って書いてあるが、追諡したのは明治天皇御代だから上の二冊が出た時代には,1000年前の話とはいえ,逆らいがたい威力が残存していたのも事実であろう。
今では非即位説が優勢のようであります。
付近には何箇所も大友皇子の存在を示す伝承地が存在する。
・大友天神社・大友神明社・大友皇子丸藪之館跡・大佛山 玉泉寺・大友皇子御陵遺跡(古墳)・小針第1古墳「西大友町の大友天神社誌」より 大友皇子は自害したといいふらし、一族のもの数名と三河にのがれた。
物部・長谷部・村主(すぐり)などの一族がこれに従った。
皇子は嘆き悲しみ、後に三河の地で亡くなり、小針の神田に葬られた。
従者の長谷部信次が神社を創建して、皇子の霊をしずめた。
これが大友神社である。
大友という地名もこれによる。
持統上皇が三河に幸行した理由は壬申の乱に協力した者への褒賞だけでなく大友皇子や草壁皇子を探しに来たという想像もできます。
【三河と大和朝廷について】古きは景行天皇の皇子である「大碓命」や「五十狭城入彦命」、丁未の乱での敗者である物部守屋の次男の「物部真福(まさち)」や、孝徳天皇の皇女「綾姫(歌千代姫)」、「大津皇子」や「草壁皇子」など、ここ三河国(穂の国)の狭い範囲の地に大和朝廷から疎開の地であろうか?
名前 |
大友天神社 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.3 |
境内がきれいに整備されており気持ちいいです。