名前 |
弁天山金刀比羅神社 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
5.0 |
中世戦国期の伊東氏が治めた時代には烽火台(合図のための煙が見える高い場所)として使われていたと伝えられています。
日講上人が残した日記「説黙日課」によると、「寛文十二(1672)年八月十二日梯子を絶岸(絶壁)に懸け、弁財山(弁天山のこと)に登って遊興時を過ごす(長い時間楽しく過ごした。
)」とあります。
また、「鶴城譜略(カクジョウフリャク)」という古い本によると「四代藩主忠高(タダアキラ)公は延宝三(1675)年弁天山に太鼓を置いて時を報ず(時刻を知らせた)」と書かれています。
その後、太鼓は鐘に代えられ、大正八(1919)年にサイレンに代わり、第二次世界大戦時の昭和十九(1944)年空襲が激しくなって、サイレンが役場(今の佐土原地区公民館)に移されるまで、250年以上もの間、佐土原の人々に一日も休まず時を告げてきたのでした。
上田島地区に住む人々にとって、弁天山はいつも自分たちを見守ってくれる懐かしくも誇らしい山となっています。
山の頂上には金刀比羅神社があり、祭神は弁財天、稲荷大明神、金刀比羅大権現です。
大正時代から昭和の初めにかけて秋のお祭りは大変賑わいました。
弁財天は七福神の一人で財宝を齎す女神として、昔から信仰を集めています。
頂上からの眺めは素晴らしく、遠くに米良の山々が見渡せます。
(「わたしたちの郷土佐土原の歴史と文化財」宮崎市立佐土原図書館/編 より)山の中腹には弁天様の石像が祀られた祠があります。