神名帳の陸奥國曰理郡の項に鹿嶋緒名太神社と記載のあ...
山の奥に静かに佇む神社です。
神名帳の陸奥國曰理郡の項に鹿嶋緒名太神社と記載のある式内社の論社。
また、同郡記載の鹿嶋伊都乃比氣神社の論社でもある。
なお、この近くに平安時代前半の陸奥国亘理郡郡衙跡(三十三間堂宮衙遺跡)がある。
道路の脇に赤い鳥居があり、そこから入ると100mぐらい先に次の赤い鳥居がある。
膝まで届きそうな雑草に覆われた鳥居の下を潜り、奥へ入ると、完璧な山道の様相で、これはたいへんなところかもしれないと、覚悟する。
その先T字に道が分かれていて、左は七峰山(ななうねやま)、右は鹿島緒名太神社と二つの看板があった。
それで、右に曲がっていくと、背の高い杉の間に階段があり、その上に社殿の屋根が見えた。
覚悟は不要だった。
曰理郡には三座の鹿嶋系の神社があって、ヤマト王権の東北進出にあたって設置された神社と考えられている。
三代実録には鹿島苗裔神が曰理郡に二社あることになっているので、当社はその一社かもしれない。
苗裔神は御子神なので、鹿嶋神の御子神ということになるのだが、現在は武甕槌神を祀っている。
そして当社には「太」という字が付いているが、一説にはこれは多氏の祀る神社であったことを示すものではないかという説がある。
三代実録(866)に、「常陸國鹿嶋神宮司言、大神之苗裔神三十八社在陸奥國。
」と陸奥國に三十八社の鹿嶋神宮の苗裔神があったことが記載されている。
三代実録にはもう一つ、興味深い記事があって、それによると、782年から823年、陸奥國の鹿嶋苗裔神への鹿嶋神宮のお供えがなかったことを理由に陸奥三十八社の鹿嶋苗裔神が祟ったという。
この記事は何を示しているのだろうか。
そもそも鹿嶋神宮や陸奥の苗裔神は多氏が奉斎していたといわれている。
それが鹿嶋神宮の奉斎氏族が中臣氏に変わり、本来の鹿嶋神宮の神、すなわち建借間命(タケカシマ=常陸國風土記で神八井耳命の後とされる)から軍神・武甕槌命にすり替えられた可能性が高いといわれている。
【山西風の社殿】鹿島市由布郡奥宮(原文)延喜式内社,陸奥國 曰理郡 鹿嶋緒名太神社。
名前 |
鹿島緒名太神社 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0223-34-1884 |
住所 |
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関連サイト |
https://www.miyagi-jinjacho.or.jp/jinja-search/detail.php?code=310010279 |
評価 |
4.0 |
宮城県亘理郡亘理町逢隈小山地区の山中腹にある鹿島緒名太神社です。
道路西側に赤い鳥居があり途中第二鳥居付近には社務所とイノシシ防止柵の電気柵を跨ぎます。
七峰山と神社の表示を右側に行きます。
創建はとても古く111年で主祭神は武甕槌神です。
亘理郡延喜式式内社・四座の内の一座です。