武田氏館跡の南西に位置する梅翁曲輪の松木堀を挟んで...
武田二十四将の一人補給のプロとしてその手腕を買われていました。
また関東方面を担当していたと言われています。
甲斐武田家家臣、武田二十四将の一人で、特に武田四天王と呼ばれる。
1522年~1575年。
工藤虎豊の次男・工藤祐長として育つ。
父虎豊が武田信虎との対立から誅され、長兄工藤昌祐とともに甲斐から出奔した。
その後武田晴信(信玄)による信虎追放の甲斐国内の「クーデター」が起き、甲斐武田家に帰参する。
この時点で祐長から信豊に。
1562年上野攻略の際、国峰城を計略により自軍の損傷なく、落城し敵城主は逃亡した。
これにより武田信玄に大いに賞賛された。
昌豊は戦国武将としては、冷静にして思慮深く温厚、人望も篤く軍全体統括に優れ知略をもって戦に臨んだといい、信玄の下で譜代家老衆にまでなる。
1568年要衝である信州深志城(後松本城)の普請が命じられる。
1570年深志城からこれも上州の要衝・箕輪城に配置転換、この時当時武田家の名門で断絶していた「内藤」の姓を承り修理亮を称したといわれる。
以後、関東方面の政治・外交において武田信玄の全権名代として手腕をふるい、北条家との交渉にも力を注いだ。
1572年、武田信玄西上に従軍、徳川家康との三方ヶ原の戦いにおいて、大いに活躍、武田家勝利に貢献した。
信玄死去後武田勝頼の代に。
そして1575年、織田信長・徳川家康連合軍との長篠の戦い。
信豊はその他の信玄時代からの老臣・四天王、馬場信春・山県昌景との協議から現時点での攻撃は不利とすること事ことを総大将・勝頼に提言。
だが勝頼以下、側近衆により却下され総攻撃の方向へ、結果歴戦の老将・四天王と言われた馬場・山県他、原正胤・真田信綱・高坂昌澄などの有力武将が戦死、武田家は大敗する。
昌豊も大いに奮戦するが退却、大将・武田勝頼が落ち延びるのを見届け、追撃軍の猛攻からの盾となり、全身に矢を受け散っていった。
享年54歳。
それ大敗以降、大きな人才・兵力を失った甲斐守護武田家は衰退への道へ。
名前 |
内藤昌豊屋敷跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
評価 |
3.8 |
武田氏館跡の南西に位置する梅翁曲輪の松木堀を挟んですぐ南側に位置しています。