散策ついでに寄りました。
赤い靴はいていた女の子像 / / .
🎶赤い靴 は~いてた 女の子~🎶思わず口づさんでしまいそうな可愛い像です。
みんなに靴を触られたのか金ピカの靴を履いていました。
山下公園の中にある女の子の像ですね。
海を見ながら公園をブラブラと散歩、疲れたら沢山あるベンチで休憩。
横浜らしい景色が見られるのもココかなと思います。
ここから見る夜景も素敵。
そういえば、横浜のお土産でも、赤い靴がモチーフの物が多いですね。
山下公園には時々訪れてるものの、意外にここは素通りしがちだったので、散策ついでに寄りました。
夕方以降、マジックアワーの時間帯だとさらに情緒に浸れますし、銅像だけを見てるとなぜか昭和気分にトリップできるかもです。
いつでも季節の花々に囲まれています。
氷川丸と港の背景もお忘れなく。
赤い靴はいていた女の子像、子供のころからなじみのある曲という理由で見に行きました。
朝の山下公園の散歩は、この季節でもとても気持ちがよかったです。
妻と一緒に女の子は異人さんにどこに連れて行かれたんだろうね?なんて話してました。
赤い靴履いてた女の子ー♪あれです実は横浜が舞台の歌じゃないのはみんなにはナイショだよ。
赤い靴はーいてたーおーんーなーのー子です。
童謡で有名な赤い靴はいていた女の子の像です。
寂しそうに横浜港を見ています。
美しい公園の真ん中にぽつんと海を見ています。
寂しがりやさんです。
山下公園の大さん橋寄りにひっそりとたたずんでいました。
由緒ある像だと思いますが、少し寂しそうに感じました。
いいことも、そうでないことも考えてしまいます。
彼女の見ている風景。
横浜市民ですが、全然場所を知らず たまたま歩いている時に見つけました。
有名な像ですが、あまり目立つ感じではありませんでした像の横には童謡の歌詞の案内があります1979年 設置童謡「赤い靴」の歌詞にある女の子をイメージして建てられたものです。
女の子の名前は岩崎きみ。
人気スポットのようですね。
私が訪れた時にも入れ代わり立ち代わり多くの人が写真を撮りに来ていました。
しかし童謡に歌われている「異人さん」とは一体何者なのでしょうか?私としては、大和和紀の『ヨコハマ物語』に出てきた「人買いの毛唐」でないことを祈りたいですが…
周りにバラが咲いていてキレイだった。
寺井「ひいいいいい!!」中川「なんですかこの顔!?」両津「突然部長が現れるのと変わらんな…」
赤い靴はいてた女の子のことを再考しましょう。
いろんな花が綺麗に咲いていて、良い香りがしていました。
氷川丸と共に山下公園のシンボルですね😺像はかなり小さいです。
そっと近づくと、あの♫メロディーが流れる様になっていれば更に良いと思う⁉️
♪赤い靴はいてた女の子〜異人さんに連れられて行っちゃった〜。
ひいじいさんではありませんm(_ _)m
赤い靴はいてた女の子、そっとたたずんでいました。
横浜を代表する景観のひとつです。
山下公園のスポットの1つ脇には童謡「赤い靴」の歌詞があります。
多くの人が、この像を見に来ています。
この女の子の見ている先には何があるのでしょうか?
赤いくつ履いてた女の子 異人さんに連れられて行っちゃった♪冬にはマフラーが巻かれていることもあります。
またきみちゃんの手の部分がお賽銭箱のようになっていることもあります。
良いじいさんや人参さんによく連れ去られる女の子です。
実際は異国に行く前に、病気で幼くして亡くなっている実在した方です。
哀しくも優しく微笑んでいるのが印象的。
横浜を代表する女性の一人です。
彼女をモチーフにしたお土産が、ランドマークやマリンタワー等各所お土産屋さんで販売されています。
オススメは赤い靴靴下です。
最近 静岡県静岡市日本平・夢テラス にある「赤い靴母子像」を目にしたばかり。
(↑親子再会の銅像)山下公園の「赤い靴はいていた女の子像」のイメージばかりが強くなぜ静岡に?と疑問だったが清水に住む女の子がモデル。
赤い靴の女の子は 実際には外国には行っておらず、当時、不治の病で9歳で亡くなったそうです。
この子は 外国に行きたかったのか?母は 行かせたかったのか?なくなく手放したのか?海を見ながら座る銅像の設置は彼女の本意か、意図的か。
どっちなんだろうか。
夜はライトアップとかもされていないので一度は通り過ぎてしまった・・ま,特に訪れなきゃいけないところでもないかな。
靴が赤色かどうかはこの像からはもちろん判別不能。
(2018/11最終訪問)
のんびりと海を見ながら休憩できるポイントです。
ひいじいさんの像はない。
1979年11月横浜山下公園に山本正道作でブロンズの『赤い靴はいてた女の子の像』が作られた。
これは純粋に野口雨情の詩のイメージをモチーフにしたもので、赤い靴を愛する市民の会、後に赤い靴記念文化事業団と改称から寄贈された。
1982年8月同会はこの像のミニチュア版を999個制作し、そのうちの1個を横浜駅へ寄贈した。
当初は横浜駅駅南口に設置されていた。
1998年横浜駅改良工事に伴い撤去され保管されていた。
2010年12月横浜駅自由通路(中央通路)に移設された。
2010年山下公園の少女像と同型の像が、横浜市と姉妹都市のアメリカ・カリフォルニア州サンディエゴ市の海辺に建てられ、6月27日に関係者が出席して除幕式が行われた。
1986年静岡県日本平『母子像』1989年東京都麻布十番『きみちゃん像』1991年北海道留寿都村『母思像』2007年北海道小樽市『赤い靴 親子の像』2009年北海道函館市『きみちゃん像』2010年青森県鯵ヶ沢町『赤い靴の像』『赤い靴』 野口雨情作詞本居長世作曲1922年発表。
歌詞は実話を題材にして書かれたという話が定説化していた。
清水市有渡郡不二見村、現静岡市清水区宮加三、出身の岩崎かよの娘の、佐野きみ1902年7月〜1911年9月、がその赤い靴を履いていた少女のモデルとされた。
その「定説」は次のとおりである。
岩崎かよは未婚の母としてきみを育てていたが、北海道に渡り、鈴木志郎と結婚する。
きみが満3歳の時、鈴木夫妻は、社会主義運動の一環として当時注目されていた北海道の平民農場へ入植する。
しかし開拓生活の厳しさもあり、かよは義父の佐野安吉の仲介により、娘きみの養育をアメリカ人宣教師のヒュエット夫妻に託すことにした。
やがてヒュエット夫妻は本国に帰る事になるが、その時きみは結核に冒されており、アメリカに連れて行く事が出来ず、そのまま東京・麻布の鳥居坂教会の孤児院に預けられてしまう。
きみは孤児院で母親に会うこともできず、9歳で亡くなったという。
母親のかよは、きみはヒュエット夫妻と一緒にアメリカに渡ったものと思いこんでいて、きみが東京の孤児院で結核で亡くなったことは知らされないまま一生を過ごした。
1903年野口雨情は社会主義詩人として出発した。
1907年札幌市の新聞社に勤めていたときに、同僚の鈴木志郎やその妻のかよと親交を深め「かよの娘のきみが宣教師に連れられて渡米した」という話をかよから聞かされた。
乳飲み子の長女のぶ(きみには異父妹)を抱えて、鈴木夫妻は開拓生活に挫折していたのだ。
じつはこの時点では、きみは鳥居坂教会の孤児院にいたのだが、かよはそのことを知らない。
1921年この話を題材にして『赤い靴』が野口雨情によって作詞され、1922年に本居長世作曲で童謡になった。
1973年きみの異父妹・岡その、鈴木志郎とかよの三女が、新聞に「私の姉は『赤い靴』の女の子」と投書した。
この記事に注目した北海道テレビ記者の菊地寛が調査を開始した。
菊地は5年にわたる取材ののち、上記の事実を確認した。
1978年『ドキュメント・赤い靴はいてた女の子』というドキュメンタリー番組を北海道テレビで制作・放送した。
1979年菊地はノンフィクション小説『赤い靴はいてた女の子』を発表、この本の記述が「定説」として定着した。
「定説」への異議この「定説」には「捏造」が含まれているという説が作家の阿井渉介によって提唱された。
1986年静岡・日本平に「母子像」が建立された際、阿井は、地元テレビ局静岡放送が制作した記念番組、『流離の詩・赤い靴はいてた女の子』、の構成台本を依頼され執筆したが、このとき菊地本や、『ドキュメント・赤い靴はいてた女の子』に示された「定説」の事実関係に不審を抱き、のちに「定説」の矛盾点を追究するに至ったという。
2007年12月著書『捏像 はいてなかった赤い靴』徳間書店 において「定説」には根拠がないとする批判を明らかにした。
阿井による説は以下の通りである。
きみの実父を佐野だとする菊地本には根拠がない。
きみが戸籍上、佐野の養女になっているのは、私生児を祖父の戸籍に入れる措置に準じて考えるべき。
菊地本で養親に比定されている宣教師の名前は、正しくはヒューエット。
ただしヒューエット夫妻と、きみの間には全く接点がない。
「きみが宣教師の養女となった」という話は佐野がかよを安心させるためについた嘘であり、実は佐野が2歳のきみを東京の孤児院に預けて、きみはそこで一生を過ごしている。
この時期、北海道で布教を行なっていたヒューエット夫妻が、北海道に渡ってもいないきみを養女とすることはありえない。
菊地本は「宣教師の養女になったきみのことを、かよから聞いた雨情が詩にした」とするが、かよが雨情夫妻と言葉をかわす機会はそう多くなかったはずで、自分が結婚前に私生児を産んだと進んで告白するとも思えない。
野口家と鈴木家との親交は、夫同士の仕事上のつきあいと社会主義についての語り合いに限られたものとおぼしい。
雨情の『赤い靴』は社会主義的ユートピア運動の挫折の隠喩と解すべきだ。
阿井は、菊地は自分の取材不足を想像で埋めたとして「捏造」と論難しているが、これに対して菊地は自説の骨子には誤りはないと主張している。
朝早いと人が少なく、写真も撮りやすい。
小学生の音楽の時間に習った『赤い靴履いてた女の子』のメロディ。
その女の子の像がここにあります。
とても小さくて可愛らしいブロンズ像です。
1979年、横浜山下公園に『赤い靴はいてた女の子の像』が作られた。
これは純粋に野口雨情の詩のイメージをモチーフにしたもので、赤い靴を愛する市民の会から寄贈された。
女の子の表情は少し微笑んでいたようでした。
名前 |
赤い靴はいていた女の子像 |
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ジャンル |
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住所 |
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営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
評価 |
4.0 |
平日の夜10時頃伺いました。
ウォーキングやランニングする方がチラホラいらっしゃいました。
横浜の海を赤い靴を履いた女の子が一人で見守っていました。