明王山浄心寺は曹洞宗で平塚市吉沢(きさわ)の松岩寺...
住宅街にある立派なお寺です。
日本における曹洞宗は鎌倉時代に始まる。
道元は,臨済宗黄龍派の明全に随身した後,共に宋に渡り,天童山で曹洞宗の天童如浄(長翁如浄)に師事して開悟(身心脱落)して修行が終わり,1226年に帰国した。
r宗祖・洞山良价から道元までの法嗣は,rr洞山良价 - 雲居道膺 - 同安道丕 - 同安観志 - 梁山縁観 - 大陽警玄 - 投子義青 - 芙蓉道楷 - 丹霞子淳 - 真歇清了 - 天童宗玨 - 雪竇智鑑 - 天童如浄 - 道元rrとなる。
r道元自身は自らの教えを「正伝の仏法」であるとしてセクショナリズムとしての宗派を否定した。
このため弟子たちには自ら特定の宗派名を称することを禁じ,禅宗の一派として見られることにすら拒否感を示した。
どうしても名乗らなければならないのであれば「仏心宗」と称するようにと示したとも伝えられる。
r後に奈良仏教の興福寺から迫害を受けた日本達磨宗の一派と合同したことをきっかけとして,道元の入滅(死)後,次第に禅宗を標榜するようになった。
宗派の呼称として「曹洞宗」を用いるようになったのは,第四祖瑩山紹瑾(1268 - 1325年)とその後席峨山韶碩(1275 - 1366年)の頃からである。
r日本における曹洞宗は,中国における曹洞宗の説とは違い,曹渓慧能と洞山良价の頭文字を取って曹洞宗と呼ぶのを定説としている。
r「臨済将軍曹洞士民」といわれるように,臨済宗が時の中央の武家政権に支持され,政治・文化の場面で重んじられたのに対し,曹洞宗は地方武家,豪族,下級武士,一般民衆に広まった。
曹洞宗の宗紋は久我山竜胆紋(久我竜胆紋・久我竜胆車紋)と五七桐紋である。
行った事が無い。
ひなびた古寺です。
墓参りも出来ますし、法事が終わった後に昼食も出来ます。
明王山浄心寺は曹洞宗で平塚市吉沢(きさわ)の松岩寺(しょうがんじ)の末寺(まつじ)である。
享禄(きょうろく)元年(1528)に月松宋尖和尚により開山された。
ご本尊は虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)ですが山号・院号・寺号の「明王山 不動院 浄心寺(めいおうざん ふどういん じょうしんじ)」からすれば不動明王(ふどうみょうおう)であっても良いのに何故か虚空蔵菩薩です。
「新編相模風土記」に記載があるので江戸時代には既に虚空蔵菩薩であったようです。
禅宗なのに密教の仏である虚空蔵菩薩が安置されている事実は大変興味があります。
私が知る限りで同じ禅宗なのに虚空蔵菩薩を本尊にしている臨済宗妙心寺派の浜松市井伊谷(遠江とうとうみ)にある徳川家に縁ある古刹「萬松山龍譚寺」です。
浄心寺も天正十九年に徳川家より御朱印を賜っている様なので本堂屋根の家紋が葵紋なのか疑問です。
浄心寺が開山される前、観応(かんのう)1350年間のころ、城所には城所籐五郎正揚(きどころとうごろうまさやす)という足利尊氏の家来が館を構えていた。
この館は現在の浄心寺境内にあったといわれています。
当時の館の歴史的記録として、正和(しょうわ)三年(1214)文和(ぶんわ)年間1352年頃の板碑が3枚出土しています。
浄心寺の参道を入ると山門は丸嵩石、丸柱の四脚門で銅葺きの切妻屋根構造である。
年代は不詳であるが作風から本堂と同時代と考えられる。
軒下には世田谷豪徳寺の巨海東流(おおみとうりゅう)揮毫(きごう)なる白抜き文字の「明王山」の変額が架かる。
中門の手前には12段の石段があり左右に石灯籠が2躯、左手に赤い頭巾がかかった六地蔵、右側には「子育地蔵菩薩坐像」が安置されています。
建立は當山二十二世卍宋和尚の誓願による。
子育地蔵菩薩坐像の右には十六世住持の宝筺印塔、地蔵菩薩2躯、石塔1躯、奥に聖観音、如意輪観音、千手観音菩薩立像の3躯中門からの本堂までは敷石と波形に玉石が敷き詰められ実に清清しい。
本堂は元治元年(1864)に建立され、棟札によれば「寄棟造茅葺、向拝唐破風(こうはいからかふ)、桁行五十八尺、梁行四十九.三尺」本堂唐破風(からかふ)の縣魚(げぎょ)として「鳳凰、金剛力士、竜」の三装飾の意味は深く、また実に素晴らしい朔造である。
この唐破風の鳳凰については金沢文庫の称名寺の仁王門の鳳凰によく似ています。
棟梁は鎌倉郡高屋村永井文蔵、脇棟梁は上平間熊沢佐吉、金沢須崎、彫工は永井忠蔵ほか城所住人485名。
向拝(こうはい、ごはい)…日本の寺院建築・神社建築において、仏堂や社殿の屋根の中央が前方に張り出した部分のこと。
仏堂や社殿入口の階段上に設けられる場合が多いことから「階隠」(はしかくし)とも。
破風(はふ)…切妻造や入母屋造の屋根の妻の三角形の部分。
また切妻屋根の棟木や軒桁の先端に取付けた合掌型の装飾板 (破風板) をもいう。
普通は凹曲線をなすが,途中が高くなった起 (むく) り破風,反転曲線から成る唐 (から) 破風がある。
また尾根面につけられた千鳥破風,向拝など片流れの縋(すがる) 破風などがある懸魚(けぎょ)…神社やお寺の屋根の破風板部分に取り付けられた妻飾りのことで、屋根の構造が、切妻造りか入母屋造りであればたいてい付けられています。
この「懸魚」の語源は、文字通り「魚を懸ける」ことであり、水と関わりの深い魚を屋根に懸けることによって、「水をかける」という意味に通じています。
つまり、水の代わりに魚を屋根に懸けて、火に弱い木造の建物を火災から守るために、火伏せのまじないとして取り付けられたものなのです。
これは、中国雲南省の少数民族(白沙村等)に、魚の形をした板を屋根に懸ける風習が今でも残っており、漢字で「懸魚」と表記されることから、これが火伏せのまじないとして魚が使われたとする根拠となっています。
境内の左にある3.5mの宝筺印塔は文久9年(1826)に建立で信州伊那郡北原村の北原與兵衛(よへい)の朔造。
浄心寺右手のお堂は、「吾妻鏡(あずまかがみ)」にある鎌倉幕府将軍の源頼朝の妻、政子の安産祈願寺の一つであった真言宗の「補陀山千寺院常蘇寺」の観音堂です。
元々は浄心寺の北西に鎮座してありましたが明治8年8月21日火災でその七堂伽藍、本尊全て焼失。
その後の新幹線工事で山の土を提供するため、現在の場所に石仏と共に移された。
観音堂の本尊は千手観音の他に薬師堂、鐘楼、仁王門が整備されていた。
常蘇寺の御詠歌「きどころの このま隠れの 観世音 祈りて常に さむるうつし世」で相模国第32番として信仰されてきた。
本尊の焼失跡からは「一石一字の経石が取り囲むように敷き詰められていた」ので当時は話題になった。
移設された観音堂の前には、文政6年(1823)造立の輪回塔(摩尼車)市内唯一の石仏で石塔に吉(凶)南無阿弥陀仏と刻んだ回転車をつけたもの。
水盤は、城所寺現住英春世村仝衆中の『塞念佛石坂 供羪水鉢』を當所願主若者中が明和四丁亥年五月初旬に奉献した。
その他水盤左に石塔1躯、天明5年の千手観音、大日如来、石幢2躯、石塔1躯、地蔵菩薩立像1躯、観音菩薩1躯、輪廻塔1躯、基礎1躯、不明佛2躯。
名前 |
浄心寺 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0463-55-0884 |
住所 |
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評価 |
3.7 |
大変話しやすい住職で、お寺も立派です!