住宅地の中にありますが、綺麗に整備されています。
長屋王邸跡の商業施設は総じてうまくいかない。
こちらのお墓にもっと手を合わせるべきではなかろうか?
宮内庁管轄らしく松がたくさん植えられています。
トイレが整備された屋根付きの休憩場所もあります。
平群を散策して気づいたことはお弁当を広げて休憩する場所がないことです。
このトイレの前で食事をするしかありませんでした。
それでもありがたい場所です。
住宅地の中にありますが、綺麗に整備されています。
すぐ隣は小公園で水洗トイレもあります。
公園の前は、短時間なら車一台停車できそうです。
樹木の緑が綺麗でした。
元々はこの辺りの古墳群を構成する円墳の一つですが、明治時代になり、長屋王の墓に比定されたそうです。
陵墓なので当然ですが、墳丘に立ち入る事はできません。
公園というから駐車場があるかと思いきや、ありませんでした。
公園前に車1台駐車できる広さの路肩があるだけでした。
吉備内親王墓から200メートルくらい進んだ場所に。
長屋王御陵公園(トイレあり。
散策当日はトイレットペーパーなし)の隣に御陵があります。
御陵は径15メートルの円墳ですが、宮内庁管理により、正方形に整えられています。
真墓かどうかはわからないですが、夫婦が、すぐ近くに並ぶように眠ってるんですよね。
いつも隣の空き地で草刈りしてます。
少し遠出して、平群を散策しました。
冬枯れの山あいの町に歴史が、佇んでいました。
天武天皇の皇子である高市皇子の皇子である長屋王。
妃は、天武天皇皇子である草壁皇子(岡宮天皇)の皇女。
と言うプライドからか藤原氏の娘である光明子の立后に真っ向から反対した長屋王。
しかし、藤原氏に謀反の罪にて自害されられる。
藤原氏はその後、民間人初の光明皇后の立后に成功して、摂関政治の基礎を造って行く。
長屋王の死後、奈良の都にさまざまな不幸が襲う。
聖武天皇皇子の早死、疫病による藤原四兄弟の死、等、それらの出来事は、当時は全て怨霊の仕業と考えられ、聖武天皇はその長屋王の怨霊から逃れる為、不可解な遷都を繰り返す。
怨霊を鎮める為、国分寺、国分尼寺、さらには、日本一の大仏の建立も決意する。
長屋王の怨霊は、聖武天皇の政治を狂わせ、しいては庶民をも苦しめる事になる。
奈良の大仏として、今は奈良のシンボルたる大仏だが、本来の目的は長屋王の怨霊を鎮める為に建立されたのだろう。
駐車場はありませんけど、直ぐ隣が長屋王公園となっておりその前に2台程度は、駐車出来ます。
2020.02.05訪問 梨本南2号墳は、宮内庁によって長屋王墓に治定されている古墳です。
当古墳の別称であるナガヲ塚という名称は長屋王の名前が転じたものであると考えられ、それを根拠に治定されたようです。
現在は径15mほどの円墳のような形状をしていますが、1997年に陵墓域外で行われた調査により、全長45m、後円部径30mほどの前方後円墳であったことが明らかになっています。
近くの公衆トイレに設置された案内板より陵墓のため主体部は明らかでありませんが、6世紀前半の築造とされています。
平安時代末期から耕作が行われた結果、現在の姿にまで削られてしまったようです。
周りを住宅街に囲まれ、こじんまりとした陵墓です。
歴史上では皇族とはいえ、敗者なのでしょうがないのでしょうか。
となりに公園もあり、きれいに整備されています。
天武天皇の皇孫。
皇親勢力の巨頭として政界の重鎮となったが、対立する藤原四兄弟の陰謀といわれる長屋王の変で自殺。
藤原四兄弟は長屋王の祟り(?)で相次いで病死した。
奈良、斑鳩にポツンとありました。
長屋王について、調べてから来ると感慨無量です。
長屋王さんの奥さんのお墓も近くにあります。
お二人様の愛を感じれる場所です。
住宅街にあります。
墓の横にはトイレもあります。
すごい田舎かなとおもってたんですが意外と栄えてました。
その他の色々な古墳が近辺にあります。
長屋"親王"奈良時代、時の左大臣にして藤原氏と対立した皇親勢力の筆頭、長屋王。
律令を堅持しながら善政を敷くなど有能な政治家であったとされる長屋王ですが、729年の長屋王の変において、なぜ藤原宇合の軍に包囲され自殺(あるいは謀殺)させられるに至ったのか。
若き聖武天皇が生母である藤原宮子の尊号に関する勅を発した際、長屋王らが律令に反すると指摘、最終的に天皇が勅を撤回するという異例の事態に発展しました。
しかしながら、自らは決まりに反し長屋親王(高市皇子の子なので本来親王ではない)と呼ばれていたり、自らが考案した人事考課では自身に最高の評価を与えるなど、他人に(天皇であっても)厳しく、自分にとても甘いという性格が垣間見えます。
天武天皇の皇孫としてのプライドや藤原氏に対する侮蔑、そして半分は藤原の血を引く聖武天皇への軽視などが複雑に折り重なり、決定的な場面において孤立、藤原氏につけ入る隙を与えたことが最悪の結果を招いたと言えるかもしれません。
この方の姿を想像するとき、「弟子やったらパンパンやで」でお馴染みのオール巨人師匠が思い浮かぶのは、粗相をした興福寺の僧侶を笏で張り倒したエピソードのせいだきっと(笑)
平群の里にひっそりと世の中で鎮座。
国道168号線のバイパスができたのでかなり行きやすくなりました。
歴史上かなり重要な人物ではあるが陵墓はかなり質素で周囲は住宅地が真横にまで迫ってきている。
陵墓前は公園として整備されており、ハイカーのためのトイレなどもある。
長屋王は天武天皇の皇孫に当たり、父親の高市皇子が庶子(母が皇族でない)であったため、天皇位こそ望めませんでしたが、知識、人格、人望に優れ左大臣として、また皇親として政治的な影響力は絶大でした。
そのため皇位継承をめぐり藤原氏と対立し、藤原四兄弟の策謀に陥れられ攻め滅ぼされてしまいます。
その長屋王の変後、平城京では天災が続き、天然痘などで藤原四兄弟を始めとして立て続けに死亡したため長屋王の祟りではないかと取り沙汰されている。
長屋王邸宅のあった跡地に建つ奈良そごう(現イトーヨーカドー)などが経営不振になるのも長屋王の祟りと奈良県民はこっそり思っている。
歴史を感じれる場所。
長屋王(ナガヤノオオキミ)は 今から約1300年以上前の 飛鳥~奈良時代初頭にかけての皇族で 藤原不比等らと 当時の政治家のトップに君臨した人物です しかしながら 無実の罪により自殺に追い込まれ 悲劇の終焉を遂げた人物でもあります なお官位は正二位・左大臣でしたまたココから西に150m程の所には 長屋王と伴に逝った吉備内親王(キビナイシンノウ)のお墓も有ります なぜ直ぐ横に お墓を造らなかったのか とても残念で悲しく思いましたが コノ距離がイイのカモ⁉
名前 |
長屋王墓 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト | |
評価 |
3.9 |
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公園も併設してキレイに整備されてます。