算数の先生はこちら出身だったのですね!
関孝和の銅像と顕彰碑 / / .
関家は下野の小山・結城一族で、同じ一族の大石内蔵助、長谷川平蔵と親戚にあたる。
茨城県にかつて関城町があったが、関城の城主であった。
孝和は内山家からの養子だが、内山家は武田一族で、武田と小山は婚姻関係があり、血縁的にもつながっている。
結城合戦の時、内山家は本家大井家とともに結城方に立ち、ずっと懇意な間柄であったと思われる。
当家も結城の子孫で、家系図には江戸期に牛込山伏の関家に養子を送っていることが記載されている。
ちなみに、ノーベル物理学賞の湯川秀樹博士は武田一族の和歌山の湯川氏の子孫です。
関孝和数学者。
通称新助,号自由亭。
甲府藩主徳川綱重とその子綱豊(後の将軍家宣)に仕えた。
《発微算法》(1674年)で初めて筆算による代数(点竄(てんざん)術)を創始,方程式論,高次方程式の近似解法,行列式(1683年),正多角形,円弧の長さを求める方法等を研究,和算の発展に大きく貢献した。
上毛かるたに「和算の大家関孝和」と詠われたように、彼は青年期から数学を独学し、その才能を買われて、甲府藩の徳川綱豊に仕え、勘定吟味役となりました。
その後、綱豊が第六代将軍の座に昇ると、直参となって江戸へ行き、西の丸御納戸組頭に任ぜられました。
当時も屈指の数学者として知られていましたが、のちに円周率の小数点以下第15位まで算出していたことがわかって、現代の数学者をも驚かせたといいます。
これは当時、世界的にも数学の最先端を行っていたことになるそうです(^_^ゞ
名前 |
関孝和の銅像と顕彰碑 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.9 |
日本にニュートンやライプニッツに並ぶ算学者が居たとは‼️