国指定史跡、古墳時代末期の方墳です。
宝塔山古墳は国指定史跡で、墳丘全長66m、墳丘高12m、石室全長12.04m、周堀があったそうです。
石室は切石を巧みに積み上げた立派な造りです。
石棺も「くり抜式家形石棺」が立派なものです。
宝塔山古墳の上には秋元氏の歴代の墓所があります。
また古墳の中腹には隣の光誉寺の歴代の僧正の墓所もあります。
良い状態の石室を見学できる。
墳頂には、近世史を学べる秋元氏墓所。
7世紀半ばに造られた方墳。
国指定史跡とある正面側からは頂上にある秋元氏代々の墓所に行く事は出来るが石室には行くことができない。
石室にはぐるっと回って光厳寺の横にある石段を登って行く。
石室は、非常に状態が良く、きれいに加工された切石を巧みに積み上げて造られている。
主室の中には精巧な家形石棺がある。
(中の遺物は散逸してしまったらしい)隣の前橋市総社歴史資料館に宝塔山古墳の石室や、石棺の様子を復元したジオラマがある。
国指定史跡、古墳時代末期の方墳です。
全長66mと、方墳にしては大型です。
古墳の4番バッターである前方後円墳よりはコンパクトですが、石室は接合面がきれいに処理されており、技術力は高度化しています。
古墳時代末期ともなると、仏教も来伝されてきて、コミュニティが急速に高度化。
国家としての組織・体裁が整いつつあり、政治の役割が増大してきた頃です。
地域の支配者だからって無邪気に何百メートルもあるような巨大な前方後円墳なんか作ってる場合じゃないのでしょうね。
古墳の上は総社の町にいた領主の歴代の墓所になっており、玄室に入るには古墳をぐるっと回って反対側から階段を登るとよいです。
周りは住宅地で家が隣接しているのですが、玄室は自由に入ることが出来ます。
説明の碑があります。
古墳は夏場は草がボウボウに生えている所がほとんどなので、春から初秋に訪れるなら長袖長ズボン靴下タオル帽子いまならマスクで防備するのが当然ですので、準備はおこたりなく。
山に行くときと同じです。
古墳時代後期のものなので玄室は横穴式で浅く、奥に棺を置いたと思われるくぼみもあります。
中はかなりひろく、天井まで180くらいでしょうか?ほとんどの人は屈まずに入ることが出来ます。
この近辺の古墳はどれも古墳後期のものなので、石の組み方が素晴らしいのに尽きます。
天井の石の一辺が非常に長いものばかりで、こんな大きな石をどうやってこんなにきちんと崩れることもなく組み上げたのか?と思うと、とにかく建築技術の素晴らしさに感心することしきりです。
表面の研磨の技術もすごいんですよ…!隣の蛇穴山古墳も合わせて見てくださいね。
群馬の古墳(石室)めぐりには外せない古墳です。
服装品は盗掘され何もありませんが精巧な石切の技術は、圧巻です!古墳初心者でも楽に見学できますが石室内は暗いのでライトをお忘れなく。
南側に石室をもつ方墳で国の重要文化財です。
頂上は秋元家累代の墓所で初代秋元長朝以下の墓が並んでいます。
入り口がちょっと分かり難いですが、要は反対側です。
上の森でカラスが巣作りしている様で、荒っぽいのが1羽頭を襲って繰るので、注意が必要。
かなり奥行きがある石室内に、自由に入れます。
直ぐ横にある資料館で、予習がオススメです。
塚には総社の村民に慕われた秋元公の零代が静かに眠っておられます。
古墳の中は冷気で覆われています。
しっかりとした作りが歴史上、とても力があった土地の豪族の方を祀ったものと思われます。
前橋総社歴史資料館の隣です。
蛇穴山古墳と合わせて見学出来ます。
宝塔山古墳、蛇穴山古墳などから構成される、5世紀後半から7世紀の古墳群で、古墳時代から飛鳥時代に入ると、古墳文化に仏教文化が取り入れられるようになり、共存している様子が窺われます。
7世紀中頃に造られた一辺約60メートルの方墳で、石室は前代の愛宕山古墳までの自然石を積み上げる手法から、加工された切石を積み上げる截石切組積(きりいしきりぐみづみ)の手法が採用され、漆喰を厚く塗ることで白く平らに仕上げられた痕跡が残ります。
玄室には、輝石安山岩製の刳抜式家形石棺(くりぬきしきいえがたせっかん)が安置されており、石棺の底面付近には、格狭間(こうざま)が刳り込まれています。
格狭間は、聖徳太子墓の棺台などに見られる様式と同一と考えられ、古代の墓に仏教文化の影響が及んだものと考えられています。
石室に石棺が残されています。
そのデザインには既に仏教の影響が見られます。
名前 |
宝塔山古墳 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.0 |
宝塔山古墳。
方墳。
両袖式横穴式石室を持つ。
石室は正面の階段ではなく、裏に周り、そこにある階段から登る。