この付近の他の天皇陵と一緒に回りました。
春日向山古墳(用明天皇河内磯長原陵) / / .
聖徳太子の父親(第31代天皇陵)にあたる御陵で、叡福寺正門前の登り道路を、まっすぐ7~8分登って行くと信号交差点左手に磯長小学校があり、右折隅に小さな御陵の案内碑がある。
100m前方の左丘が御陵である。
ビックリするくらい、自然に溶け込んだシンプルな御陵である。
叡福寺から東(山側)へ、2つ目の信号を南へ少し進めば右手に。
拝礼所は古墳南側にあります。
方墳で空濠の外側で四方が各100メートルぐらいあります。
空濠の外側を散策てきますが、散策道より低い位置に民家があるのと、何故か個人のお墓か点在しており、気になって…。
でも、古墳は綺麗に整備されていますので…
Googleマップどうりに行くと住宅街に着くので、太子中を目指して行けば着きます。
被葬者:第31代・用明天皇実際の被葬者は明らかにされていませんが、宮内庁によって第31代・用明天皇の陵と治定されています。
築造は古墳時代末期、7世紀前半と伝えられています。
拝:2020/09/05
◾️用明天皇 河内磯長陵第31代 用明天皇陵用明天皇は古事記の下巻の最後の方に登場しますが、古事記自体が後半は物語もなくなり用明天皇の記述もわずか数行しかありませんでした。
しかし用明天皇は聖徳太子のお父さんでもあります。
あの有名な法隆寺はもともと聖徳太子が用明天皇を供養するために造営されたものなんだそうです。
良いのですが、行きにくい、わかりづらい、ってことでしょうかね……
第31代天皇で 聖徳太子の父親デスネ‼在位2年で天然痘で病死病に臥してる時に仏教に帰依している聖徳太子の墓である叡福寺妹の推古天皇の陵墓との間に位置する🎵駐車場はチェーンで封鎖されてた‼
古墳名は春日向山古墳で、東西65メートル、南北60メートル、高さ10メートル。
天皇陵としては最初の方形墳です。
周囲には空濠があり、外堤までを含めた規模は一辺100メートルに達する巨大な規模を有しており、墳丘規模や形は、蘇我馬子の墓と言われる石舞台古墳とよく似ているとも言われます。
31代用明天皇陵として宮内庁により治定。
用明天皇は在位2~3年足らずで崩御されますが、聖徳太子の父と言った方が分かりやすいかもしれません。
古墳時代最後の天皇とも言われます。
『日本書紀』によれば、磐余の池上の陵に葬られますが、その後、推古元年(593)に「河内の磯長の陵」に改めて葬ったと記録あり。
聖徳太子が祀られている叡福寺に程近く、市街地にあることから、良く整備された美しい古墳です。
王陵の谷太子町の梅鉢御陵の一角にある。
方墳で一辺やく60M位の御陵。
周りを住宅に囲まれていた。
先の台風被害か倒木が外堤に倒れたまゝだった。
管理者が居るようでしっかりと手が入っていて良かったです。
この付近の他の天皇陵と一緒に回りました。
やはり陵墓なので綺麗に整備されていますね。
太子町にある古墳。
聖徳太子の父。
東西67m、南北63mの方墳、築造時期は古墳時代後期と推定。
別名「春日向山古墳」、用明天皇(聖徳太子の父)を埋葬したと伝えられる。
この時代、仏教崇拝をめぐって崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏が激しく対立したが、用明天皇は仏教を推し進めた。
駐車場がない、電車で行くにも遠くて、なかなか訪ねにくいところ。
第31代天皇。
用明天皇陵は聖徳太子の廟所のある叡福寺から少しばかり山手に登ったところの住宅地内にある。
かつては人里離れたのどかな山間だったが、この30年ほどの宅地化ですっかり住宅地に囲まれてしまったようだ。
欽明天皇(29代)の息子。
敏達天皇(30代)は異母兄、推古天皇(33代)は同母妹。
敏達は皇族系の母親だが、用明と推古は蘇我系の母親。
聖徳太子は用明天皇の息子だ。
聖徳太子の息子、用明天皇の孫山背大兄王の一族は蘇我氏に滅ぼされてしまったので、用明天皇の直系は断絶してしまっているといってもいいようだ。
用明天皇は、聖徳太子の父にあたる人物です。
第31代 用明天皇 ようめいてんのう グランドの砂地の様な道の入口。シンプルな造りです(^^;
名前 |
春日向山古墳(用明天皇河内磯長原陵) |
---|---|
ジャンル |
|
電話番号 |
0721-98-0300 |
住所 |
|
評価 |
3.4 |
梅鉢古墳(5つ)の中の1つです何にも無い静かな御陵。