北面には絵殿及び舎利殿が建っています。
法隆寺境内の中にある夢殿五重の塔から少し歩きますし、小ぢんまりとしてますが、八角形の美しい建物です。
面倒くさがらずに是非、足を運んでご覧ください(^^)
夢殿って素敵な名前ですよね!【以下説明】夢殿(国宝)奈良時代の建立の八角円堂。
堂内に聖徳太子の等身像とされる救世観音像を安置する。
夢殿は天平11年(739年)の法隆寺東院創立を記す『法隆寺東院縁起』の記述からその頃の建築と考えられているが、これを遡る天平9年の『東院資財帳』に「瓦葺八角仏殿一基」の存在が記され、その頃に創立された可能性も考えられている。
8世紀末頃には「夢殿」と呼称される。
奈良時代の建物ではあるが、鎌倉時代に軒の出を深くし、屋根勾配を急にするなどの大修理を受けている。
昭和の大修理の際にも屋根を奈良時代の形式に戻すことはしなかったため、現状の屋根形状は鎌倉時代のものである。
基壇は二重で、最大径が11.3メートル。
堂内は石敷。
堂内の八角仏壇も二重で、その周囲に8本の入側柱が立ち、入側柱と側柱の間には繋虹梁を渡す。
入側柱と側柱は堂の中心に向かってわずかに傾斜して立つが、これは「内転び」と呼ばれる中国渡来の手法である。
観音菩薩立像(救世観音、国宝)飛鳥時代、木造。
夢殿中央の厨子に安置する。
長年秘仏であり、白布に包まれていた像で、明治初期に岡倉覚三(天心)とフェノロサが初めて白布を取り、「発見」した像とされている(岡倉らによる「発見」については伝説化されている部分もあり、それ以前の数百年間、誰も拝んだ者がいなかったのかどうかは明らかでない)。
現在も春・秋の一定期間しか開扉されない秘仏である。
保存状態が良く、当初のものと思われる金箔が多く残る。
行信僧都坐像(国宝)奈良時代の乾漆像。
行信は東院の建立に尽力した人物である。
吊り目の怪異な容貌が特色。
道詮律師坐像(国宝)平安時代初期の作。
この時代の仏像はほとんどが木彫であるが、本像は珍しい塑造である。
道詮は、荒廃していた東院の復興に尽力した人物である。
聖観音立像(重文)救世観音の背後に立つ。
絵殿及び舎利殿(重文)鎌倉時代の建立。
絵殿には、摂津国(現在の大阪府北部など)の絵師である秦致貞(はたのちてい、はたのむねさだ)が延久元年(1069年)に描いた『聖徳太子絵伝』の障子絵(国宝)が飾られていた。
太子の生涯を描いた最古の作品であるが、明治11年(1878年)、当時の皇室に献上され、現在は「法隆寺献納宝物」として東京国立博物館の所蔵となっている。
絵殿には江戸時代に描かれた『聖徳太子絵伝』が代わりに飾られている。
伝法堂(国宝)切妻造、本瓦葺き、桁行七間、梁間四間。
内部は床を張り、天井を張らない化粧屋根裏とする。
橘夫人(伝承では県犬養橘三千代(藤原不比等夫人、光明皇后母)とされるが、現在では聖武天皇夫人・橘古那可智とする説が有力)の住居を移転して仏堂に改めたものとされ、奈良時代の住宅遺構としても貴重である。
昭和大修理時の調査の結果、この堂は他所から移築され改造された建物で、前身建築は住居であったとみられる。
堂内には多数の仏像を安置するが、通常は公開していない。
内陣は中の間、東の間、西の間に分かれ、それぞれ乾漆造阿弥陀三尊像(奈良時代、重文)が安置される。
他に梵天・帝釈天立像、四天王立像、薬師如来坐像、釈迦如来坐像、弥勒仏坐像、阿弥陀如来坐像(各木造、平安時代、重文)を安置する。
東院には他に南門(室町時代の長禄3年(1459年)建立、重文、別名不明門)、四脚門(鎌倉時代、重文)、鐘楼(鎌倉時代、国宝)がある。
法隆寺の拝観料1500円は高いと思いましたが、法隆寺⇒西院伽藍⇒大宝蔵院⇒東院伽藍の4施設を結構な距離を歩き見所があります。
というか、日本最初の世界文化遺産であることを、お忘れなく。
夢殿は、聖徳太子の遺徳を偲んで739年に建てた伽藍を上宮王院といい、その中心となる建物が夢殿です。
個人的には、古き建物に八角堂は珍しいと感じました✨
入場券3か所の一つ。
こちらも見どころがある場所です。
期間限定でご本尊が開帳されます。
4月11日〜5月18日10月22日〜11月22日。
高齢の母と密にならない場所として選び訪れました。
母がたいそう喜び、連れていってよかったです😃ゆっくり行動しても迷惑がかからないので安心して動く事ができました😃
私が法隆寺に行った時はほぼ無人でした(笑)静かで良かったです。
後に夢殿と呼ぼれるようになった美しい八角の伽藍聖徳太子信仰の聖地。
奈良時代739年国宝の八角円堂聖徳太子供養の為に建立中央には聖徳太子のお姿そのものだと言われる救世観音像が鎮座されてます。
布でグルグル巻きにされ1200年も秘仏とされていた事…ありえない事に光背が頭部に太い釘で打ちつけられている事…そもそも法隆寺を建てた理由…とても興味深いです。
法隆寺東院にある夢殿、修学旅行以来の訪問です。
佳いものは良いですね。
1972年秋、高校の修学旅行で訪れました。
法隆寺で記憶に残るのは、夢殿。
不思議な形の建物だったからかもしれません。
聖徳太子、と言えば、山岸凉子か池田理代子か。
残念ながら、私は、両方とも読んでいません。
日本における東洋美術史の心の故郷が、法隆寺であるかどうかは分かりませんが、法隆寺の中でも、この夢殿が、その象徴的な存在、と思うのは、私個人の感想です。
聖徳太子を徳を偲んで行信僧都が739年に建てた法隆寺東院の中心建物です。
救世観音を本尊とし、東院の創立と再興とに尽力した行信・道詮の像を安置します。
堂は八角形の平面を持つ八角円堂と呼ばれる仏堂で、夢殿の他にも多くの八角円堂が奈良に集中しているそうです。
春季秋季に秘仏である夢殿本尊の救世観音様の厨子が開かれ拝観できます。
2019.12.14訪問 聖徳太子を追慕して創立された法隆寺東院の中心建物で、著名な救世観音を本尊とし、東院の創立と再興とに尽力した行信・道詮の像を安置する。
太子の住居であった斑鳩宮の跡地と伝えられていたが、昭和九年以降の修理工事にともなう発掘調査で、当時の掘立柱建物数棟を発見確認された。
この調査では東院創立当初の回廊や南門の規模も判明した。
夢殿は、聖徳太子を供養する堂として建てられた堂です。
八角円堂という夢殿の円同は故人を供養する堂の形という定めに由来、内部には太子ゆかりの遺品が集められています。
八角形のお堂です。
モダンな感じがしました。
大きさは小さいですが、凄く綺麗です。
敷地面積、約187000㎡、東京ドームで換算すると14個分と言う広大な敷地に多数の伽藍が並ぶ法隆寺。
その東端近くにあり、あまり大きくはない建物なのに、古くから多くの人々を引きつけてきたのが『夢殿』。
正式名称は『上宮王院夢殿』。
法隆寺全体は西院伽藍・東院伽藍の2つの寺域に区分されますが、東院の中心となっているのが夢殿です。
夢殿はもともとは法隆寺の所属ではありませんでした。
夢殿の建つ土地はもともとは聖徳太子一族の住まい「斑鳩の宮」があった場所でしたが、7世紀の中頃に戦禍の中で焼失。
それを惜しんだ法隆寺の高僧・行信は、同じ地に夢殿を含む上宮王院を建立。
その後に上宮王院が法隆寺に統合され、現在に至ります。
夢殿は聖徳太子を供養する為に建てられたお堂です。
八角円堂という夢殿の建築様式も、故人を供養するお堂の形という定めに由来しています。
内部には太子ゆかりの遺品が集められています。
建立は天平11(739)年頃とされています。
これは推古30(622)年に聖徳太子が49歳で亡くなってから約100年が経過した時の事です。
聖徳太子信仰が大きく高まりはじめて、夢殿はやがて信仰の中心地となりました。
法隆寺が上宮王院を吸収したのも、夢殿に集まる聖徳太子信仰の力が欲しかったからといわれます。
お堂が『夢殿』と呼ばれるようになったのは平安時代のことですが、その名は、かつて太子が法隆寺に参籠して瞑想にふけったときに黄金でできた人が現れる夢を見たという故事に基づいています。
夢殿は太子を供養する場であると同時に、太子が見た夢の寝殿でもあるのです。
夢殿は、中門を改造した鎌倉時代の礼堂と廻廊に囲まれており、北面には絵殿及び舎利殿が建っています。
一度は643年に蘇我入鹿によって焼かれてしまいますが、現在ある夢殿は天平時代の建立とされ、瓦ぶきの屋根は創建当時のまま残されています。
聖徳太子一族が滅亡してからは、斑鳩宮は荒れた状態になっているのを、739年に高僧の行信僧が太子の遺徳を偲び、斑鳩宮跡に飛鳥時代の形式で建立した東院を創建したことがそのはじまりとされています。
中国の八方位陰陽説から来ているものといわれ、八角形はその角をつないでいくと、非常に円に近いかたちとされ、縁起がよいかたちと考えられているそうです。
同じく興福寺北円堂、栄山寺八角堂などに代表されるように、個人の菩提を弔うための建築物として8世紀以降のものに多くみられるようになりました。
国宝である「救世観音像」は八角円堂の中央に安置されています。
公開されることはなかった時代もありましたが、明治17年にフェノロサが白布を解いてから、春と秋にその姿がみられるようになりました。
夢殿は奈良時代に行信が斑鳩宮跡に建てた法隆寺東院の中心建築で天平11年(739)頃に建立されたそうです。
八角形の仏殿で、中央の厨子には救世観音立像、向かって右奥に行信像、左奥に道詮像が安置されています。
救世観音立像は聖徳太子の等身像と言われ13世紀頃から秘仏とされ、厨子の中に白布に巻かれ明治時代までほとんど見たものはなかったそうです。
現在は毎年4/11~5/18と10/22~11/22に開扉され拝観出来ます。
かつてはお厨子の中が暗く目を凝らして拝観しましたが、LEDのライトがつけられ拝観しやすくなりました。
八角円堂(奈良時代)聖徳太子の等身像とされる救世観音像を安置。
岡倉天心とフェノロサが白布を取り去りました。
(17/12/23)国宝です。
堂内に聖徳太子の等身像とされる観音菩薩立像(救世観音)を安置。
奈良時代の建物。
拝観料(西院伽藍内、大宝蔵院、東院伽藍内共通)は1,500円です。
天平11年(739)行信僧都が聖徳太子の遺徳を偲んで建てた上宮王院の中心となる建物。
古代ロマンがぎっしり詰まったお堂です。
2017/5/2拝受 御朱印の墨字は、救世観音。
聖霊院で法隆寺の御朱印と一緒に頂きました!
夢殿内にある「救世観音立像」は、聖徳太子の写身と謂れている。然し、長い間秘仏とされ、誰も見た事がなかった。また、斑鳩宮跡に東院伽藍が造られた。明治十七年のこと。アメリカ人のフェノロサが強制開扉し、救世観音は、漸く長い夢から覚めたのだった…。顔も姿も生々しく幽艶。仏像としては可也異質な感じ。手には謎な”宝珠”を持たされ、困った顔にも見える。笑ってはいないだろ。楠木の一木造り、仏身中空構造をもつ。只の拝み仏では無いだろうな。それなら、何の為に夢殿に秘仏がいるのだろうか?…「世間虚仮、唯仏是真」太子の言葉。[救世観音立像 像高179,7cm、飛鳥時代、楠材、国宝]
聖徳太子の住まいだった「斑鳩宮」はこの場所に建っていたそうです。
と、言うことは、聖徳太子はココから飛鳥まで毎日通っていたということですが、歩くと約4時間。
馬でも2時間ぐらい?毎日、お疲れさまでした。
国宝の夢殿は創建が739年で八角円堂造りの本瓦葺きです 今日まで幾度となく修理され 最後の修理が1934年で その後の姿が現在のモノとの事ですまた堂内には 本尊の木造観音菩薩立像が安置され 像高が178.8cm 楠木の一木で7世紀中頃の作像とありますなお御本尊は春と秋の ある期間に拝顔ができます またその他の 行信僧都坐像 道詮律師坐像 聖徳太子立像 聖観音立像は 金網越しに見ることができますなんと言っても夢殿は 法隆寺のシンボル的存在です 来訪の折りは どうかお見逃しナク❗
名前 |
夢殿 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0745-75-2555 |
住所 |
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評価 |
4.4 |
秘仏救世観音は公開期間に金網越しにしか見れず、裏側の火炎の彫り物も非公開💦