江戸時代にも村主八幡宮として祭祀されていました。
御祭神 誉田別命当神社は古く鎌倉時代にあり、江戸時代にも村主八幡宮として祭祀されていました。
大陸文化を取り入れ大きな功績を残しています。
明治時代になり神社の統合がなされ、明治四十二年(1909)、神社二十七社が合祀され名胡桃の総鎮守として社名も村主八幡神社に改称されました。
戦後社格制度が廃止され、昭和二十八年(1953)宗教法人八幡神社として名称も変わり氏子の崇敬を集めています。
特に当神社は、江戸時代より明治まで毎年流鏑馬の神事が行われていました。
現在の社殿は明治二十六年(1893)に造営されたものです。
現在、四月の春期大祭には、神楽殿で太々神楽並びに浦安の舞が行われています。
神社を中心に、村主地区には歴史を感じる多くの文化財があります。
(境内案内板及び神社パンフレットより)群馬県指定天然記念物「村主八幡神社の大ケヤキ」永い間、神社の神の木として大切にされてきました。
この木の下で、名胡桃の村主・小松・大宮の三つの八幡神社の三社祭りとして、馬に乗り走りながら的を射る流鏑馬が、明治の中頃まで行われました。
樹齢は約700年で根元の周りは約15m、高さは約25mです。
フクロウが棲むこともあり、今も元気で大切にされています。
(神社パンフレットより)みなかみ町指定史跡「若宮塚」室町時代の中ごろ、この地方の長者の家に如意姫という美しい娘がおりました。
姫は、その美貌と歌の才によって都に召され、小桜の内侍と呼ばれました。
姫は後花園帝の寵愛を一身に受けましたが、後宮の女官たちの妬みによって都を追われ、御子を宿したまま故郷へ帰りました。
御子の明賢親王が生まれて間もないころ、都から「石の袋」を題に歌を求めて来ました。
姫は御子のたどたどしく口にした「いさご」の言葉から、機知に富んだ歌を送りました。
「勅なれば石の袋も縫ふべきに、砂(いさご)の糸を縒りて給はれ(帝の求めなら石の袋も縫いましょうが、ならばその前に砂で縒った糸をお与えください)」御子は二才で病死し、若宮塚に葬られたといいます。
若宮は明賢親王と呼ばれ、如意姫のお子でした。
若宮は二年二カ月で亡くなり、村主八幡神社わきに、ひょうたんの形の塚を築いて供養しました。
これがいつの世か若宮塚と呼ばれるようになりました。
(サイト「神社探訪」及び神社パンフレットより)群馬県指定天然記念物「上津のウバザクラ」境内の西側にある江戸彼岸です。
若宮塚の傍らに立っています。
室町時代、名胡桃城主の上野介景冬の姉、如意姫が京を追われ、帰郷の際に都から持ってきたといわれる桜です。
(神社パンフレットより)他にも見どころがあります。
向拝柱の前に置かれた力石は「66㎏」と「88㎏」みなかみ町指定重要文化財「絵馬」(スサノオ伝説)みなかみ町指定重要文化財「算額」みなかみ町指定重要無形民俗文化財「太々神楽」三国街道の宿場「塚原宿」塩原太助が愛馬と江戸に向かった道「アオと塩原太助の道」
立派な欅の大木です。
源義家が奥州征伐の際に宿営し、八幡太郎の名をしたためて戦勝を祈願したと伝わる古社です。
境内には、若宮塚と呼ばれる塚があり、かつて名胡桃城主に如意姫という才色兼備の姉がおり、都に召されて宮中に上がり、御花園天皇の寵愛を一身に受けましたが、そのほかの女官の妬みに耐えかねて、泣く泣く故郷に戻されることとなりました。
帰郷の翌年、如意姫は子を産み、明賢親王と名付けられましたが、西暦1462年(寛政3年)明賢親王はわずか三歳でにして亡くなってしまったため、葬り祀ったのが若宮塚と伝わっています。
名前 |
村主八幡神社 |
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ジャンル |
/ |
住所 |
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評価 |
4.1 |
雀蜂駆除に行って来ましたが、立派な殿堂でした。