名前 |
赤城神社 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.6 |
御祭神 大己貴命境内社 菅原社 愛宕社明治四十一年(1908)に上泉神社(現・諏訪神社 上泉町935)に合祀。
(桂萱村誌より)剣聖 新陰流流祖 上泉伊勢守生誕の里上泉伊勢守信綱は永正五年(1508)上泉武蔵守義綱の二男として誕生。
幼名は源五郎、その後に伊勢守秀綱、武蔵守信綱と改名しています。
初めて木刀を握ったのは5、6歳のころ、生まれ持った才能をさらに高めるため、13歳の時には常陸国(茨城県)鹿島の鹿島神傳直心影流を習い、第2世を相伝したと伝えられています。
その後、上泉に来訪した陰流の祖、愛洲移香斎に出会います。
そこで陰流のすべての指導を受け、23歳で相伝。
さらに諸流を工夫して新陰流を創出しました。
しかし、長野氏率いる箕輪城が武田勢に敗れたため、永禄六年(1563)に新陰流を普及するため上洛しました。
永禄七年(1564)に13代将軍足利義輝に、元亀元年(1570)には正親町天皇に新陰流兵法を披露し、剣聖の名を名実ともに不動のものとしました。
永禄八年(1565)、上泉伊勢守は柳生宗厳(石舟斎)に印可相伝、その後、新陰流は尾張徳川家の御家流になるなど日本有数の剣術流派に発展しました。
晩年の信綱の足取りは不明ですが、山形上泉家によると天正五年(1577)に没したと記されています。
(前橋まるごとガイドより)