4月の第2日曜に萬燈祭という伝統のあるお祭りが開か...
龍舞賀茂神社御祭神 別雷神合祀神 櫛御気野命 菊理比咩神 豊城入日子命 大直日命 大穴牟遅神 素盞嗚命 宇迦之御魂神 誉田別尊 菅原道真公 市寸島姫命賀茂神社縁起略記本社は貞観三年(861)九月二十九日大納言藤原長良公京都賀茂神社の神霊を此處に勧請し一社を建立し賀茂神社と称し伝えられ祭神は別雷命を祀り末社二十余社を数へり。
その由来は社伝及び園田文書に依れば同年武蔵羽生に賊徒反乱を起し東國大いに乱れるに及びしとき当時上野國司として國府在城の長良公に勅命を下し是れを誅伐せしむ。
この折長良公京都の賀茂明神に戦勝を祈願し此處に出陣し利根川を前の備へとしもって長蛇の陣を敷けり。
その際四霊の神すなはち青龍、白虎、朱雀、玄武の神旗を龍舞の地を中心に四方に高々と建て対陣せり故にその神旗青龍の旗は風になびき龍形となりて雲に至り雷電すさまじく烈しき雨となり敵陣を襲い遂に是を平定せりと伝ふ。
この雷電の加護を感じまた此の地に青龍の旗を立てたるゆえをもってこの地に当社を創建したるなりと言伝ふ。
例祭には境内中央に四神霊の旗を建つるはこれに由来す。
その後江戸時代の中期天明七年(1787)八月一日霊験極めてあらたかなるに由って正一位の位記を宣下せられたり。
明治五年(1872)十一月郷社に列せらる。
(境内案内板より)群馬県指定重要無形民俗文化財「龍舞賀茂神社の萬燈祭」萬燈祭の由来は、地域の伝承では、天保の飢饉の際、京都方面からの流浪人が龍舞村(現龍舞町)にたどり着き、龍舞賀茂神社が京都の賀茂神社の御分霊を勧請したものであることを知り、京都で奉納されていた萬燈をこの地でも奉納することを村人に相談し、天保八年(1837)に奉納したのが始まりといわれています。
以来、この祭は、五穀豊穣・村内安全・繭の増収などを祈って行われてきました。
祭は、龍舞町の各コウチで製作した十数基の萬燈を賀茂神社に奉納し、神社境内や神社の南に南北に延びる通りで、萬燈を担ぎ振り回します。
これを「振り込み」と呼びます。
萬燈には、大萬燈(一基)と、小萬燈(十三基ほど)があります。
各萬燈は、木製の主柱の上部に上毛三山(赤城山・榛名山・妙義山)になぞらえた花飾りを配置し、島台には伝統的な装束を着けた人形が置かれ、その下部に燈籠を付け、島台と燈籠の間には長い竹ひごを多数さして回りに垂らし、全体のバランスをとっています。
これらの萬燈が通りに並んで振り込みが行われる様子は壮観です。
奉納後は、萬燈の花ひごをもらい、家の入口などに差すという風習があります。
現在、この祭は龍舞萬燈保存会によって保存・継承され、毎年四月に本祭、その前日には前夜祭が行われています。
(「太田市オフィシャルサイト」より)
広い境内に歴史を感じさせる社殿があります。
社務所もありますが、不在のようで御朱印いただけませんでした。
4月にお祭りをする。
神楽やまんどうを見ることができる。
名前 |
龍舞賀茂神社 |
---|---|
ジャンル |
/ |
住所 |
|
関連サイト | |
評価 |
3.6 |
毎年、4月の第2日曜に萬燈祭という伝統のあるお祭りが開かれます。
コロナ禍で規模が最小限ですが、大萬燈は、迫力があります。