この標識だけが六波羅探題跡を示すもの。
六波羅蜜寺の宝物殿には、教科書に載っている歴史上の有名人物の仏像が拝観できます。
平清盛や、空也上人、弘法大師などです。
近くには幽霊子育飴のお店もあります。
上半分の此付近しか読めなくて見つけるのに時間かかった。
石碑には「此附近平氏六波羅第六波羅探題府跡」と彫られていたと思います。
僕はかなり感激しましたよ。
六波羅探題(ろくはらたんだい)は、鎌倉幕府の職名の一つ。
承久3年(1221年)の承久の乱ののち、幕府がそれまでの京都守護を改組し京都六波羅の北と南に設置した出先機関。
探題と呼ばれた初見が鎌倉末期であり、それまでは単に六波羅と呼ばれていた。
六波羅探題(ろくはらたんだい)は、鎌倉幕府の職名の一つ。
承久3年(1221年)の承久の乱ののち、幕府がそれまでの京都守護を改組し京都六波羅の北と南に設置した出先機関。
探題と呼ばれた初見が鎌倉末期であり、それまでは単に六波羅と呼ばれていた。
六波羅探題は、朝廷では無く幕府の直接指揮下にあり、西国で起きた地頭と国司などの紛争を処理する裁判機能、京都周辺の治安維持、朝廷の監視、皇位決定の取り次ぎなどを行った。
後醍醐天皇の討幕運動から元弘の乱が起こると、令旨に応じた足利高氏や佐々木道誉・赤松円心・石井末忠らは京を攻めた。
これによって当時の探題だった北条仲時らは京を追われ、六波羅探題は壊滅した。
かつて栄華を誇った平家の邸宅群も歴史にその名を留めた鎌倉幕府の六波羅探題もかつてを偲ぶものは今や小さな石碑のみ。
まさに諸行無常、盛者必衰ですね。
石碑のそばに綺麗な桔梗の花(多分)が咲いていました。
平安末にはこの付近に、六波羅殿と呼ばれた平清盛ら平家一門の屋敷が営まれ、またのちに鎌倉幕府によって六波羅探題が置かれました。
この石碑は、以前には現在の東山開晴館(京都市立の小中一貫校)に碑が建てられていました。
石碑がある。
宝物館の仏像は一度見る価値あり。
この標識だけが六波羅探題跡を示すもの。
他には何もない様だ。
承久の乱の戦後処理として、後鳥羽上皇方に加担した公家・武士などの所領が没収され、御家人に恩賞として再分配された。
これらは、それまで幕府の支配下になかった荘園で、幕府の権限が及び難い西国に多くあった。
再分配の結果、これらの荘園にも地頭が置かれることになった。
また、幕府側は、朝廷方の動きを常に監視し、これを制御する必要が出てきた。
そこで、朝廷の動きをいち早く掴める白河南の六波羅にあった旧平清盛邸を改築して役所にし、北条泰時・北条時房の二人が六波羅の北と南に駐留してこの作業にあたり、西国の御家人の監視と再編成および承久の乱の戦後処理を含めた朝廷の監視を行った。
六波羅探題は、朝廷では無く幕府の直接指揮下にあり、西国で起きた地頭と国司などの紛争を処理する裁判機能、京都周辺の治安維持、朝廷の監視、皇位決定の取り次ぎなどを行った。
更に文永の役翌年の建治元年(1275年)には六波羅探題の機能はさらに強化され、御家人処罰の権限と裁判制度が充実された。
また、朝廷も六波羅探題に対して、京都周辺の治安維持のみならず、寺社間の紛争解決、悪党鎮圧や所領訴訟に関する判決執行のための検断権行使を期待するようになり、幕府が朝廷との協力の下に諸問題を解決する方針を取っていた以上、六波羅探題もこの流れを拒否することはできなかった。
元弘3年/正慶2年(1333年)に後醍醐天皇の討幕運動から元弘の乱が起こると、令旨に応じた足利高氏や佐々木道誉・赤松円心・石井末忠らは京を攻めた。
これによって当時の探題だった北条仲時らは京を追われ、六波羅探題は壊滅した。
名前 |
六波羅探題跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.8 |
六波羅蜜寺境内に石碑だけ有ります。