称名寺の塔頭である光明院は赤門を入って参道を進んだ...
称名寺の塔頭である光明院は赤門を入って参道を進んだ左側に茅葺の屋根の門がある。
右側には願主周海、同智廣の奉献になる「立石佛一躯」が迎えてくれます。
この石地蔵の維持は天保五年甲牛年(てんぽうごねん きのえ うまどし)10月24?と読めましたが。
天保五年は1834年で徳川家斉の時代。
甲午年は60年に一度の飛ぶ鳥を落とすほどの勢いの飛躍ある年にする為に発願し奉献したらしい。
光明院には運慶佛である「大威徳明王(だいいとくみょうおう)坐像」が存在する。
この像は、建保4年(1216)木造、彩色、截金、玉眼、像高21.2センチの誠に小さなお像である。
(金沢文庫で保管管理)新編武蔵風土記稿には、「光明院、仁王に向かって左にあり、五院の一﨟なり、本尊地蔵春日の作なり」とあり、江戸時代後期には五つの塔頭の一位を占めていました。
この門は四脚門で和様を基本に禅宗様を加味した意匠になっています。
平成19年(2007)の解体修理で像内納入品が発見され、巻物の巻末に「源氏大弐殿(げんじだいにどの)」が発願し、建保四年(1216)運慶が造ったと記されていた。
発願者は将軍、源頼家(みなもとのよりいえ)と実朝(さねとも)の乳母だった大弐局(だいにのつぼね)とみられる。
しかし運慶の肩書の備中法印(びっちゅうほういん)を「肥中法印(ひちゅうほういん)」と誤記している。
像はおそらく京都で造られ、運ばれたとみられるが、像内納入品は鎌倉で納められたのだろう。
像の接合、彩色は鎌倉周辺にいた弟子によるものか。
本来は顔が6っ、手と足は6本の六面六臂六足で水牛に跨る姿だった。
小さな像で欠失部分はあるが、運慶の最晩年の作として貴重像だ。
もとは、大日如来と愛染明王とともに三尊を構成していたが、今はこの像のみが残されている。
名前 |
塔頭 光明院 |
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ジャンル |
/ |
住所 |
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評価 |
4.2 |
称名寺の塔頭。