ここから見える小樽港の景色は最高です。
小樽郊外祝津にある大きな鰊御殿。
昭和中期に積丹半島から移築してきたものだが、いまの場所とは何ら違和感ないし窓の外を眺めば一望千里の海原でかつてのニシン漁盛況を偲ぶのにぴったし。
網元の居宅と漁夫の宿舎を兼ねた大建築物で、盛期には百人以上がここで寝泊まりしたというのはさすがしか言いようがない(移築の際一部縮小されたらしいが)。
小樽市街からちょっと離れてるので車がないと行きづらいが、少しでも興味があれば行くべき。
入場料も300円と破格。
高台からおたる水族館の屋外プールに居るトドが見られる。
最近ではゴールデンカムイに出たという事で注目されているようですが、歴史的にも意味のある建物ですし、展示も行われています。
海も綺麗に見えますし、近くまで来た時には是非行ってみてください。
こちらはこちらで味のある建物です。
移築した建物だそうですが最初からここにあったが如くの景観です。
2階の窓から見る小樽の海の景色は素晴らしい。
こちらは入館料300円です。
クルマで無いと来るのは大変ですね。
とても立派な建造物で、当時の鰊漁の繁栄がよく分かります。
建築物や、歴史資料に興味がある方には楽しめる施設です。
無料の駐車場があります。
(乗用車10台くらい)1897年(明治30年)積丹の泊村に建てられ、1958年に現在地へ移築復元したもので全盛期には120人程の漁夫が寝泊まりしていたそうです。
ここからきれいな海や漁村が見渡せます。
ニシン漁で一発当てたお金持ちが建てた家。
ニシン漁で使った道具や当時の生活雑貨など見ることができます。
北海道開拓の村のニシン御殿(旧青山)の方が規模が大きいですがこちらもなかなか楽しいです。
雌雄両性のニシンのホルマリン漬けが置いていました。
明治に建造されたとは思えないしっかりした造り。
当時泊村の海沿いに建てられていたものを現在の場所に移築したそうです。
釘は使われていないのですが、大変な作業だったのではないかと説明を受けました。
館内には道具や写真が展示されており、当時の鰊漁の活況ぶりを感じることができます。
おすすめですね。
かつてのニシン漁やここで過ごしていたヤン衆のことを綺麗に展示してあった。
晴れた日に2Fに登ると海が見渡せて本当に気持ちがいい!ゴールデンカムイでも登場する場所で、ああこの階段であの人がこうなって...と考えたら楽しくなりました!坂ではおたる水族館の様子もちょっと見えてお得感あるよ。
ファンの方も観光の方もどちらもぜひ!
映画「はるか、ノスタルジィ」のロケ地巡りで2014年9月に訪れました。
綾瀬とはるかが出掛けた小樽市「鰊御殿」前の岸壁です。
青年時代の綾瀬(松田洋治)が立っていた日和山灯台前の岸壁は映画どおり高嶋岬に隣あわせにありました。
鰊漁最盛期時に建てられた建物です。
移設されて来たとはいえ趣は変わりません。
歴史的に貴重なものでした。
ニシン御殿の旧青山別邸から歩いて10分ほどの岬の中腹にある、積丹泊村から移築した田中福松氏築造の同じくニシン御殿。
明治24年から7年かけて築造したものだとか。
当日はあいにく風の強い曇天であったものの、おたる水族館のアシカなどのいる屋外プールを眼下に見ながら登っていき、そのプール外の入江にも荒波が逆巻き、繰り返し巌に砕けて轟音とともに白いしぶきと散る様など既に心に沁みるものがあり、中国語を話す学生らしき3人も足を止めては見入っていた。
当然、御殿からの景観は高台にあるため実に絶景であり、大海にオオカミウオが2匹ならんでいるかのような突き出た岬とその奥の山並み組み合わさった風景などはメディアにもよく取り上げられているらしい。
このニシン御殿のさらに上に日和山灯台があり、日本海各所にある日和山では最北端とか。
北原ミレイさんの大ヒット曲石狩挽歌に歌われているニシン御殿です。
重厚なその作りは当時の栄雅を偲ばせるには充分です。
中を拝観出来るのですが21年8月現在コロナ禍の為、拝観休止となっています。
是非、麓の青塚食堂で当時を偲びながらニシンを召し上がって下さい。
無料駐車場有。
ここから見える小樽港の景色は最高です。
(史料館の中には入っていません。
)
小さい頃から、当たり前の景色だったため気になっていませんでしたが、大人になり、あらためて見学すると、大変貴重な建物であり、丈夫な造りをしているのにも驚きます。
アニメ、ゴールデンカムイでも出てきますよね!!!!!
凄い太か材を使ってんな~❗(・∀・)小平町も凄すぎな御殿があるがぜよ‼️
近くまで来たら行くべきところです。
景色も良く、人も温かい、そんな場所でした。
移築らしい。
昔の面影が残ってて素晴らしい文化財。
行って良かった。
2020年9月の連休に行ってみました。
入館料が大人300円です。
小人は半額?だったと思います。
以前、来た時に中に入ったところ当時の様子を話してくれる方が居てお茶も出してくれました。
今回は時間もなかったので中には入りませんでした。
駐車場は手前にあって10台ほど無料で停められます。
ゴールデンカムイの鰊御殿そのまんまでした。
眺めも最高です。
小樽旅行3回目ですが初めて小樽市ニシン御殿を訪問しました。
当時の道具や生活用品が間近に見ることができました。
建物からの眺めも独特のもので旅の思い出になりました。
高台の風光明媚な場所に所在し、景色も最高❗最寄りには日和山灯台もあり、時間がゆっくり流れていてほっとする場所でした。
(^_^)また行きたい。
天気のせいか〜青い海と青い空が綺麗で〜この鰊御殿からの眺めは最高でした。
建物をよく見ると当時の裕福さが良くわかります。
2019.8 小樽の鰊漁の事や昔の住まいを知ろう🎵有料ですが安いのでさほど気になりません。
2階の畳部屋からは眺めも良く、ゆっくりすることも出来ます。
北海道の中には「にしん御殿」という名がつく場所がとっても多い。
「にしん御殿」という概念がわからなければ、何で沢山あるのかも分からないだろう。
ざっくり言えば、にしん漁で財を成した網元の番屋だ。
だから沢山あるのは当然なのだ。
で、北海道出身の僕が「にしん御殿に観光に行きたいと言われてどこに連れて行く?」と聞かれれば、この小樽鰊御殿に連れて行く。
というのは、小樽市が所有しているからね。
※もう一つと言われれば、小樽貴賓館(旧青山別邸)だろうね。
ということで、この鰊御殿は小樽の祝津という地区の高台にあって、とっても見晴らしが良い。
中は写真の通り、北海道がニシン漁で栄えていた時代をしのばせる品々が沢山展示されている。
小樽に来たら是非見てほしいね。
贅沢な造りに海を見渡すロケーション。
こんな御殿に住めたらな…このまま大切に保存していって欲しいです。
表示はありませんが、細い坂道を上っていくと駐車場があります。
麓の有料駐車場は民間です。
小樽市鰊御殿 冬期休館1897(明治30)年、西積丹の古宇郡泊村に建てられたもので、1958(昭和33)年、現在地に移築復元。
1960(昭和35)年に、北海道の民家では初めて「北海道有形文化財鰊漁場建築」として、文化財に指定されたロケ地🎬はるか、ノスタルジィ⇒はるかと慎介が行った海にある祠アニメ🎬もののけ姫⇒内部は、たたら場のモデルとなった📖鰊漁北海道では江戸時代の文化年間(1800年ごろ)から大正時代にかけて、鰊漁が盛んに行われていた。
最も豊漁となった大正14年には、小樽だけで鰊の年間漁獲量7万5,000石(生鰊1石=200貫=750kg)を記録した。
収穫高の少なかった時代はアイヌの人たちの労働力だけで間に合っていたが、漁網や漁船が改良、漁そのものが大型化するにつれて水揚げも増し、労働力の増大、強化が必要となった。
そこで奥羽などの漁師が、収穫の二割前後をその土地の場所請負人に収めることと引き換えに、自由に鰊漁を行う「追鰊」が行われるようになった。
定住するようになった彼らは、蝦夷地への和人の進出の先陣であると言える。
鰊は当初食用として用いられた。
その後江戸時代に人口が増大したことによって、西日本における米・綿・藍・菜種などの農産物の需要が拡大したため、これらの生産を促進させるための魚肥として重宝されるようになり、北前船によって日本海側や西日本を中心に広められた。
漁期である3~5月には、大群で押し寄せた鰊が放出した白子によって、海が白濁する「群来(くき)」と呼ばれる、様子が見られた。
またその時期になると、東北地方から3カ月ほどだけ出稼ぎに来る「ヤン衆」と呼ばれる人々や、日雇いで集められた地元の農民が、網元の「親方」の住居である番屋に泊りこんで漁を手伝った。
親方は漁場において栄華を極め、番屋はその大きさと立派さから後に「鰊御殿」と呼ばれるようになった。
鰊漁の最盛期には学校は休みになった。
子どもたちはモッコを背中に背負って網から落ちた鰊を拾ったり、年下の兄弟の世話をしたり、網の目に詰まった鰊の卵を取り除いたりするなど、子どもにもできる仕事を手伝った。
またおやつに鰊の卵である数の子を食べることもあった。
鰊漁場では鰊漁にまつわる様々な行事が行われた。
漁に先立って3月15~25日ごろには網下ろしが行われた。
鰊の大漁と舟の海上安全を祈願すると同時に、漁夫の士気の鼓舞と出漁の前祝いとして宴会が催された。
また2月の立春前日の豆まきは、鰊漁場では重要な行事だった。
神棚に上げた大豆を主人が並べ、それぞれを忍路、祝津というように場所にあてはめ、燠で焼き、白く焼けると豊漁、黒く焼けると不漁というように考える「豆占い」を行った。
3月末ごろになると水温は摂氏6度くらいになり、群来が予想されるころになる。
すると船頭は枠船の上で「さわり糸」を手にして、さわりの感触や鰊の量、周りの状態を判断し、若い衆に網起こしの指示を出す。
そしていよいよ戦闘開始となる。
そこから約3カ月にわたる、いわば「祭りのような戦争」が始まる。
また建網漁をスムーズに行うために欠かせなかったものが、いくつもの歌であり、よく知られるソーラン節のほかにも様々な漁歌が今に伝えられている📖番屋番屋には親方家族の住居部分と漁夫の生活空間が併設されている。
親方たちは居室、漁夫たちは板の間で生活していた。
漁場は完全な縦割り社会で、そのトップは親方、そのあとに大船頭、下船頭、若い衆、炊事係と続く。
特に船頭の言うことは絶対で、親方もめったに船頭に指示をしなかったことから、それだけ船頭の責任は大きかった。
また序列に伴い寝食の場所も定められていた。
鰊漁は3~5月ごろに最盛期を迎えるが、そのほかの時期はカレイやコウナゴ、ホッケの漁を行った。
半農半漁の生活を送る人たちもいた。
生の鰊は粒鰊と呼ばれ、貨車で道内各地に運ばれた。
一方鰊の多くは腹を抜いて背骨を取り除き乾燥させて身欠き鰊に加工された。
大型のきれいなものは身欠きにされ、小型の崩れたものは、そのまま鰊釜と呼ばれる釜で煮上げられた後に絞られ、肥料粕にされた。
身欠きの主な作り手は、女性を中心とした地元の人で、浜のあちこちに乾燥させるための干場が見られた。
干場の下には鰊の身から油がしたたり落ちるため、大根や芋などを栽培した。
親方は高額納税者であったために、当時の貴族院選挙権を与えられ、その土地において大きな力を持っていた。
網元が漁夫たちに賃金を支払う方法としては、給料制と歩合制が併用され、お金に余裕がある網元は給料制をとることが多かった。
親方の妻は基本的に漁には関与しなかった。
番屋には炊事係がいて、出稼ぎ漁夫と共に来たその妻が担うこともあった。
出稼ぎにきた漁夫に対して「ヤン衆」、「鰊殺しの神様」という呼称があるが、実際の漁場では使用しなかった。
「ヤン衆」の呼び名はソーラン節の“ヤーレン”、“雇い”、アイヌ語で網という意味の“ヤ”からきているなど、様々な由来が伝えられているが、俗称の意が込められているため、彼らを貴重な人材と考える親方たちは「若い衆」などと呼んだ📖身欠き鰊身欠き鰊は蛋白質の含有が多い割に値段も安いことから、蒲焼や煮染、味噌煮など様々な方法で調理された。
また腹もちもよく高カロリーであることから、野良仕事や山仕事の間食用として携帯された。
旧青山別邸から比べたらちょっと古く感じますがこの時代にしたら大きな家でお金の交渉する隠し部屋まであってすごいとおもいます。
崖の上にあり、眺めが良い。
当時は鰊が大量に採れ過ぎて畑の肥やしにもされていたのだとか。
なんかだか勿体ない。
いい。
いいですねぇ。
洋館と古民家を足して2で割って歴史と絶景をトッピングしたような佇まいは最高のご馳走だった。
あ、ここを訪れる3分前にニシン丼を食べたから最高のデザートだろうか。
モーレツな晴天も手伝ってくれて本当にいい時間を満喫できてご満悦だった。
ロケーションは良いです。
当時の漁の様子を写真や道具で見学出来ます。
ゆっくり見てもそれ程時間は掛かりません。
名前 |
鰊御殿 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0134-22-1038 |
住所 |
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営業時間 |
[月火水木金土日] 9:00~17:00 |
関連サイト | |
評価 |
4.0 |
ゴールデンカムイのイメージがあり訪れました。
当時の雰囲気を味わえます。
1時間ほどいました。
(長い方だと思います。
)ニシン漁の動画が流れており、辺見和雄が着てそうな服の人たちが写っていました。
2階は第七師団と戦闘したシーンそのものでした。
あと普通に景色がいいですり上の方には灯台もあり、登れば周りを見渡せます。