以降700年に及ぶ体制を確立した人物の墓にしては寂...
2022年7月11日「鎌倉殿の13人」の紀行を見た後に手前の白旗神社などと合わせて訪問しました頼朝のお墓を前にして五重塔って何だろう?と思い見てみたら五重の屋根を持つ仏塔で下から地・水・火・風・空と考え仏教的な宇宙観を表すそうわかったようなわかってないような?!でも面白い話だと思いましたその近くの別の高台には北条義時の墓と案内にはあるけど仏塔?などは何も見当たらずそこから更に階段を上ると大江広元などの墓はあり沢山のお供え物(飲食物)を暑い日に見て傷みが早そうだな?と少しだけ気になりましたその辺り一帯を鎌倉殿の13人で見ている場面と実際の大昔の光景の想像を重ねてみたら感慨深くなりました。
大倉御所のそばにありまするここがお墓であったという確定はないそうだが法華堂の跡があったらしく江戸時代に島津家がこのエリアの整備をし頼朝の墓として認知されることになるさらに階段を登ると頼朝の懐刀の大江広元に毛利島津そして北条義時や三浦一族の墓がありなぜ頼朝の墓の側に毛利や島津の墓を作ったのかやはり源氏ブランドに皆憧れていた!?家の繋がりを調べたら面白いよ。
源頼朝のお墓から徒歩で15分くらいの場所に在ります。
かいだんがかなりきついです。
島津忠久のお墓は2人とは階段が別になっているので疲れます。
体力に自信のない方にはお勧めしません。
鹿児島出身の方は1度、足を伸ばしてはいかがですか。
御朱印を頂きに、お寺巡りをしていた頃、頼朝の墓の道標をよく見かけたのですが、あまり興味がわかず素通りしていました。
それがまさか、そこを目指して行こうと思わせるなんて、大河ドラマの影響力は凄まじいですね。
観光客でにぎわう八幡宮とはうってかわって、静かな住宅街の中にあります。
石段を上がった丘の上の一帯に、かつて法華堂があり、そこに頼朝は葬られたそうですが、現在は建物はなく石造りの墓塔が建てられています。
表通りから隔絶された森の中の静かな空間です。
こんな場所のほうが頼朝公も落ち着くのかもしれませね。
八幡宮の後行きました。
Googleを見ていきましたが途中からは表示もありそれを頼りに。
10分ぐらいかかりました。
途中横浜国立大附属の中学校横を通ったり。
住宅街を抜けたところに、緑の多い階段。
雨の後だったので降りる時は滑りそうで怖かった。
お墓は質素な感じでしたが自然豊かなところにあり、良かったです。
歴史ある鎌倉の観光名所。
源頼朝が眠る神秘的な場所。
意外と訪問される方が多く驚きました。
約800年前の時代を築き上げた偉人を求めて多くの方々が訪れてます。
メイン通りから離れた場所にありますが、訪れる価値あり。
鎌倉で最も有名な人物と言えば矢張り源頼朝、少し20分前後歩きますが案内板が有りまあ迷わない、というか鶴岡八幡宮鳥居右から左突当り、歩道狭く往来激しい所あるので早めに左側抜け道入るのも有りただ墓石は鎌倉時代当時の物でなく江戸時代に薩摩藩が整備した物でそれ程古くは感じません、また吾妻鏡には東隣に北条義時葬られたの記述から説明板と石碑が手前に島津氏初代島津忠久の石碑が向かって右側に有ります(源頼朝庶子説から)要は若い人達も来ますが織田信長よりピンと来ないとか。
桓武平氏より?清和源氏?日本人はどちらが好きか?少なくとも平清盛より源頼朝の方が源氏の頭領、征夷大将軍、武家の頭領と武力イコール強さの象徴的なイメージ?鎌倉時代の末期から戦国時代を経て江戸時代まで武士の頭領は源氏。
その為でしょうか?1000年近く経つにも関わらず訪れる人の多い源頼朝のお墓です。
私の記憶が正しければ 30年程以前は「源頼朝のお墓?」とハテナ?マークが地図には付いていたような???調査が終了したんでしょうか?今は紛れも無い源頼朝のお墓です!
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に影響されて訪れてみました。
鎌倉八幡宮から徒歩で数分のところにあり、階段を上った森の中にひっそりと佇んでいました。
かつて日本を治めていた武将の墓ですが驚くほど飾り気はなく、質素倹約を旨とした鎌倉武士の墓だなと感じました。
日本史にひとつの大転換をもたらした人物の墓としては小さく質素で信憑性は薄いが、何度も訪れているがいつも綺麗に清掃され花が生けられているのを見ると逆にこのこぢんまりとした感じが本物に見えて来ます。
上りの石段結構きついのでお気をつけて是非一度は訪れてみて下さい。
2022年大河ドラマの主人公、北条義時ゆかりの場所です。
鎌倉駅から徒歩20分、鶴岡八幡宮から徒歩10分、白旗神社脇の階段を上ってすぐです。
鶴岡八幡宮から500mほどのところにあります。
こじんまりとした五輪塔があるだけですが、元は頼朝の持仏堂があり、そこに墓所を作ったそうです。
急な階段に注意。
将軍様のお墓らしく、広い敷地です。
お墓の横の立札から一見すると北条義時のお墓も一緒のように思うかもしれませんが、別の場所となります。
大河ドラマになるので、北条義時の墓にきたと勘違いしないような表記が必要か?とボランティアの方がおっしゃってました。
鶴岡八幡宮から歩いていけます。
鎌倉幕府の祖のお参りをしましょう。
かつての武家の棟梁といわれた源頼朝のお墓。
かなりひっそりとした場所にありました。
ここだけ悠久な時間の流れを感じました。
歴史上、有名な頼朝公の墓所ですが思ったより、、、な感じでした( ´△`)
この地を訪れた豊臣秀吉は、そちとわれは似ているの。
でも百姓からのぼりあがった我はそなたに勝ったといったとか言わないとか、、、。
源頼朝は後世からは勝者として認められ、当然とされているが、当時はそうではなかった。
波乱万丈の中、彼は歴史上の表舞台に上がり、そして鎌倉は北条氏の世になり、武家支配の礎になった。
墓を見て寂しいと思うのは現代人の感覚かも、、。
ほかの執権の墓を見ても豪華な墓などない。
その生きざまこそ問われるのであって、大地に帰っての墓の大きさについて問われる時代ではなかったのだろうと思うところ。
初めての武家政権を樹立し、以降700年に及ぶ体制を確立した人物の墓にしては寂しさを禁じ得ない。
河内源氏の嫡流であり、傍流の傍流を騙る葵の方が豪奢に祀られていることからしても、鎌倉市は史蹟整備に着手すべきだと思われる。
今があるのは頼朝公のお陰である。
鶴岡八幡宮から少し足を伸ばせばあります。
住宅街の山側高台にあり、静かな時間が通り過ぎて行きます。
徳川家霊廟に比べるとかなり質素な感じですが、威厳もあり、800年もこの地に鎮座していることを考えると、自然に手を合わせてました。
さて問題です、この石塔は、どの部分から年代が異なるでしょうか。
陰で分かりずらいかな?地元の守り人からの受け売りです。
ホント話好きな方で、尋ねなくてもドンドン話してくれます。
西御門の白旗神社脇の石段を登りきった先にあります。
徒歩での散策旅派の人には問題ない立地?!ですが、クルマ旅の人には少しアプローチしづらいかもしれません。
周辺を熟知しているわけではないけれど、下手に有名な寺社よりよっぽどいい気が流れている気がする。
あまり人が増えてほしくない場所。
JR鎌倉駅東口改札より徒歩20分。
鶴岡八幡宮の東側の住宅街の中の山の上にあります。
清泉小学校を右手に見ながら桜並木のトンネルを抜けると正面に急な階段が見えてきます。
建久10年(1199年)1月13日に前年の稲村ヶ崎での落馬が原因で亡くなった鎌倉幕府の創始者・源頼朝のお墓です。
頼朝の亡骸は大倉法華堂(現在の白旗神社)に葬られました。
その後、今の墓は江戸時代の安永8年(1773年)に頼朝が創建した持仏堂跡に島津氏より建てられたものだそうです。
数十段の急な石段をのぼると正面に石を積み重ねた2mほどの塔が立っています。
ひっそりとした空間に質素なお墓でした。
山全体に神聖な空気が流れています。
2020年4月21日自転車で訪れました。
急な石段を登ったところにある古い石塔が頼朝の墓です。
以前ここにあった法華堂が頼朝の墓所とされていたが廃絶されてしまった。
江戸時代に島津家藩主が石塔を建てたとのことです。
北条氏の陰謀で滅ぼされた頼朝の血筋の儚さを感じます。
鶴岡八幡宮のすぐ側にありますが、訪れる人は意外と少ない印象です。
現地には地元のボランティアの方が丁寧に説明をしてくれます。
武家の棟梁として初めて征夷大将軍に任官され、以降続く武家政権の礎を築きました。
この隣に北条義時の墓もあります。
鶴岡八幡宮から荏柄天神社方向に進み清泉小学校裏の住宅地奥になります。
手前にある階段は、手すりが付いていますが、急な階段です。
墓所を見ても質素な石柱があるだけです。
観光スポットをイメージすると当てが外れます。
何故なら、ここは、鎌倉の墓所だから。
八幡宮から荏柄天神、鎌倉宮、杉本観音、報国寺へと行く途中に寄るのに良いかも知れません。
ここだけを目指すには物足りないかも知れません。
しかも、ここは薩摩藩が建てたもので、歴史的に根拠のあるものではないとの事。
それでもそれなりの感慨は覚える事でしょう。
途中の路地歩きも楽しいですよ。
あの有名な源頼朝のお墓です。
心霊スポットとしてもそこそこ有名なので以前はドライブで行ったりしました。
早朝からボランティアの方にお話を伺いました。
毛利家と島津家との関係が興味深かったです。
春に訪問。
石碑に書かれている文字は読み取れないほど年季が入っている。
白旗神社にお参りし、かなり急で長い階段を上って頼朝公の墓へ。
鶴岡八幡宮よりはるかに人も少なく静かだ。
ここから鎌倉を見守ってくださっているのだろう。
辺りは草木が生い茂り、野生のリス(だと思う)が木の上にいた。
墓の下にある公園の掲示板には、近隣の子供が作った頼朝公の記事が貼り出してある。
時間があれば読んでほしい。
鎌倉幕府開府・源氏の棟梁の墓。
頼朝の死は、落馬が死因など諸説あり未だ不明。
歴史文献からも、この時期の記述が抜けていて、いろいろ推測される。
53歳で死去した頼朝の遺体は持仏堂に葬られ、法華堂と呼ばれるようになるが、やがて衰退していく。
江戸時代安永年間、近くの勝長寿院跡から石塔が運ばれ、更に薩摩藩主・島津重豪が1778年島津氏の祖・島津忠久の墓を整備する、際頼朝の墓も整備した。
山下の白旗神社は明治になり頼朝を祭神として建立された。
鶴岡八幡宮から少し離れた所にあります。
墓地の割には高い所にある上、スロープが無く階段が多め。
その上草の刈込みがあまりされていないので、夏場は虫が多く発生しそう。
源氏山公園とともに再開発が必要だと思った。
2017年11月23日初訪問。
デング熱マラリアや気になる昨今、日暮れと同時にヤブ蚊が襲って来ます。
日陰にはなるべく行かないでください。
冬は平気。
周辺料理店も夏場は食中毒との戦いです。
シェフ達の身支度で判断してください。
観光地故、周辺業者は地に甘えてますし墓跡、塚の上に建造物があります。
霊感持ちは行かぬがが吉。
周辺料理店はカレー等を特色に有料にて振舞っていますが、冬以外は食中毒に気をつけなければなりません、ご注意ください、
源頼朝の墓に行き、お参りさせて頂きました。
しかし、お墓に上がる階段にかなり問題があるようです。
登って行く時に階段面の勾配がきつすぎて、後ろに何回も倒れそうになりました。
お年寄りの方は十分に気をつけて下さい。
管理している方は気がつかないのでしょうか?
一度こちらに墓が誂えられましたが、今はもうここには眠らず、実質墓とは呼べないそうです。
閑散として寂しい印象。
階段の下には白旗神社という勝負事にまつわる神様がいらっしゃいます。
実際の頼朝の墓ではない。
日曜日に行くと、頼朝を信仰しているオッサンがいて、大きな声で話をする人を、いちいち注意したりしていて、本当にウザイ。
鎌倉市観光協会は、この人をなんとかして欲しい。
私は頼朝さんのファンなので。
日本史史上上から何番目かの指導者政治家だと。
一緒に行った親は有名な人の割にはさびしいところと言っていました。
確かに。
昼間は日が当たって暖かかったです。
名前 |
法華堂跡(源頼朝墓) |
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ジャンル |
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電話番号 |
0467-61-3857 |
住所 |
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関連サイト | |
評価 |
3.9 |
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2024年3月29日に参拝しました。
正治元年1199年に53歳で亡くなった鎌倉幕府初代将軍源頼朝は、この地にあった法華堂に葬られたそうです。
法華堂は廃絶してしまったとのことでした。
第8代薩摩藩主島津重豪(しげひで)が、このお墓を再建して現在に至っています。
島津重豪は、藩校造士館や明時館(天文館)を設立した蘭学好きの大名として有名です。