第六天社は、山ノ内上町の氏神社。
扉が開いていません!神使と話せる方募集中です!
雰囲気抜群の神社。
入り口は閉ざされていました。
境内が気になる…
例祭期間中の7/15~7/22は一般公開されるようです。
第六天社は、山ノ内上町の氏神社。
建長寺の鎮守神とされる。
『鎌倉日記』には、「円覚寺を出て南行して、第六天の森を見る」と記されている。
徳川光圀寄進と伝えられる建長寺境内図にも描かれている。
現在の社殿は、1831年に再建されたもので一間社流造。
社殿内には、江戸時代の第六天と四天王(持国天・増長天・広目天・多聞天)が祀られている。
鳥居左後方には平安時代の陰陽師安倍晴明の石碑が建てられている。
96.第六天社アクセス:「北鎌倉駅」下車、徒歩約8分。
JR北鎌倉駅から鶴岡八幡宮方面に進み、JR横須賀線踏切りを渡り、さらに進み、右側の「亀ヶ谷坂切通」の入口を通りすぎて進むと、右側に急階段の建長寺の鎮守神「第六天社」があり、鳥居が立っています。
=建長寺の鎮守神=建長寺の四方鎮守には、中央五大尊と八幡(東)・熊野(北)・子神(西)・第六天(南)があり、第六天は、ここに鎮座する。
★第六天像と自国天、増長天、広目天、多聞天の四天王像の五体が安置されていましたが、現在は、盗難に遭って今は置かれていません。
普段は、扉が閉まっている。
鎌倉石の階段は磨り減っており、危険なために扉が付けられ、閉められている。
石の鳥居は、関東大震災(大正12年(1923年))直後の建立と思われる。
・鳥居左後方には平安時代の陰陽師安倍晴明の石碑が建てられている。
例祭期間中は一般公開される。
例祭は、7月15日から22日。
「第六天」の由来碑。
(内容)建長寺の四方鎮守には、中央五大尊と八幡(東)・熊野(北)・子神(西)・第六天(南)があり、第六天は上町に鎮座する。
延宝2年(1674年)の徳川光圀『鎌倉日記』に「円覚寺オ出テ南行シテ、第六天 森ヲ見ル」とあり、また、延宝6年(1678年)の建長寺境内図(伝徳川光圀寄進)には「四方鎮守第六天」と記されている。
社殿に納められた建長寺第218世真浄元苗 筆の天保2年(1831年)の棟札によって、宝永4年(1707年)に建立した社殿の破損が著しいため、村人が願い出て再建したことが知られる。
社殿の形式は1間社流造で、幕末社殿としては古風を尊重した造りといえよう。
社殿内には第六天像が中心に祀られ、前列には自国天・増長天・広目天・多聞天の四天王像が安置されている。
いずれも江戸時代の作で、小像ながらも彫刻は丁寧で量感に満ちた佳作である。
第六天は仏教では他化自在天と称し、魔王の如き力を持つといわれ、神道では第六天神、すなわち、第六番目の神と認識されている。
神奈川県内には第六天を祀る社が180社以上あり、厄病除けの神や方位神として信仰される。
現在、建長寺の四方鎮守の中で、その位置と沿革が明らかなのは第六天だけで、建長寺史研究上の貴重な資料であるばかりでなく、地域にとっても貴重な文化遺産として永く後世に伝えたい。
また、第六天は上町の氏神でもあり、例祭は毎年7月15日から22日にかけて行われる。
鎌倉市教育委員会 文化財保護課鎌倉市山ノ内上町町内会。
安倍晴明碑があります☺️
山ノ内上町の氏神社。
建長寺の鎮守神とされる。
徳川光圀の『鎌倉日記』(延宝二年〈1674〉)には「円覚寺ヲ出テ南行シテ、第六天ノ森ヲ見ル」との記述があり、延宝六年(1678)の建長寺境内図にも見える。
社殿の建立は宝永四年(1707)。
現存するのは、旧社殿の著しい損壊を見かねた村人の申し出で天保二年(1831)に再建されたもので、江戸時代後期としては珍しい一間社流造である。
社殿内には中央に第六天、その前面に持国天、増長天、広目天、多聞天の四天王像が祀られている。
改修工事しないのかね(=゚ω゚)ノ
石段が古く境内に入れない。
風情がありますね。
石段も昔のままなのだろうか。
お参り出来なかったのが残念です。
石段が古く境内に入れない。
名前 |
第六天社 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.8 |
気になる。
気になる。
気になる。
縁があれば参りたい。