ココで引き返せないと思い、自転車で…担いで登りまし...
銭洗弁天までの近道ですが険しい道です。
崖を登るような感じです。
でも舗装されたようで、3年前より登りやすく、頂上まで近くなりました。
きれいな道を通るのもいいですが、何故かこの険しさに、はまっています。
切通の入口までの坂を登ってきたので、ココで引き返せないと思い、自転車で…担いで登りました。
かなりの急な道で、短距離の切通でしたが、3回ほど休憩してしまいました。
徒歩でも(自転車がなくても)キツイと思います。
亀ヶ谷切通と打って変わって厳し目な化粧坂。
スニーカーがオススメですけど距離も無いので頑張ればなんでも行けます歴史を感じられるかどうかはアナタしだいです (`ω´)キリッ
亀ケ谷坂切通と比較にならない急峻な切り通しです。
距離こそ大した事はありませんが、ほぼ整備されて居ない道なき道は、雨や雪等が降った後にぬかるんだ場合、滑りやすい靴、子供や高齢者にとってとても危険な場所となり得ます。
距離は3〜4倍に伸びますが、平坦な道を迂回した方が疲れず安全に移動出来ます。
スニーカーでも注意が必要。
雨の日や雨上がりで地面が濡れている場合は滑りやすいです。
小さなお子さま連れやベビーカーで登っているがいましたが危険なのでやめましょう。
和歌山の熊野古道のような古道の事をいいます。
長い間横浜に住んでますが…初めて知りました。
特に惹き付ける観光物はありませんが…源頼朝像を見る時に通り明らかに雰囲気が違うのでそこそこ楽しめました。
2016/05/01は、鎌倉山から下山で化粧坂口を利用した。
4/27から5日ほど経過したから、しみ出る水も収まっていた。
しかし、下りは上りよりも非常に危険である!慎重に足場やルートを選んで下山した。
下るとき鎌倉山公園から若者の大きな声が化粧坂に響きわたった!思わず『禅秀の乱』が勃発したかと錯覚をした。
(宴会でもしているようだ) 新田義貞が鎌倉攻めをしたとき、このように兵の声が響き渡ったのであろう。
ここも、いつまでも残したい場所の一つです。
04/27に海蔵寺から化粧坂切通を通って鎌倉山まで行き、葛原岡神社脇から鎌倉五山第四位の浄智寺まで足を伸ばしました。
「化粧坂切通」は、かなり急勾配な砂岩質の岩肌から清水が垂れており、足元は非常に滑り易くなっていました。
距離的には、然程たいした長さは有りませんが、何しろ急勾配ですから、足ごしらえしてから登るようにして下さい。
化粧坂切通は、鎌倉七口の一つで、鎌倉に住む者にとっては、南は相模湾、西、北、東側は山に囲まれた土地であるため、海から出入りするには船を海岸に寄せればよいが、陸路で鎌倉に出入りするには山を越えなければならない。
京都の公家の九条兼実が立地条件を踏まえて鎌倉のことを日記「玉葉」に、「鎌倉城」と書いている、確かに要塞都市と呼ぶべき立地条件である。
生活の為、山を切り崩し鎌倉に外部との出入りの為の道を開削したのである。
元弘三年(1333)に新田義貞が巨福呂坂、化粧坂口、極楽寺坂口の三ヶ所を攻めた。
自らは十万騎で洲崎(深沢、山崎、寺分)攻撃に当った。
洲崎には、赤橋守時、南条高直ひきいる60万の兵が布陣されていた。
5/18に両軍は65回も激戦を繰り返し、幕府側の兵は300まで減って赤橋も南条も腹を切り、90名が追腹を切った。
義貞はこれで一気に山ノ内、極楽寺方面に侵入出来た。
義貞は弟・脇屋義助とともに化粧坂切通を攻撃した。
「一族達ヲ前後左右に圍セテ、其勢三万余騎ニテ化粧坂ヲ堅メタリ」が、義貞は激戦を制圧して化粧坂を突破し、鎌倉は稲村ヶ崎の岬の先端、巨福呂坂などから乱入した兵に蹂躙されて幕府が滅ぶのである。
この後も化粧坂は義貞の子、義宗と義興(よしおき)が上野から攻め込んだときや上杉氏が鎌倉御所・足利持氏に反旗を翻した「禅秀の乱」の戦場となった。
曽我五郎と梶原景季(かげすえ)と遊女の虎が展開する『曽我物語』の舞台も化粧坂下の梅ヶ谷(うめがやつ)である。
坂の上は葛原ヶ岡(くずはらがおか)に連なり、葛原岡神社や幕府を倒そうとして失敗した日野俊基(ひのとしもと)の墓がある。
葛原岡神社の北には、これも鉈で尾根を断ち割ったような掘割が掘削されている。
戦国時代の空堀であり、名越の大切岸とならぶ重要な遺構である。
歴史好きには堪らない場所が目白押しですよ!!
中途半端に整備された崖です。
鶴岡八幡宮から源氏山公園へ歩いていこうとGoogle Mapsにナビを頼んだところ、ここを通るルートを提示されました。
ここは道ではないと思いますが、鎌倉時代を感じることができました。
「けわいざか」と呼びます。
観光地としては全く有名ではありませんが、太平記などを呼んだ方には鎌倉七口の一つと言えば想像力を掻き立てられる場所です。
源頼朝は自らの本拠地として三方を山に囲まれ一方が海となっている要害の地鎌倉を選びました。
そしてその鎌倉への入り口として鎌倉七口が整備されたのです。
実際に新田義貞による鎌倉攻めの折にもこの化粧坂は激戦の場となりました。
梅松論にも新田義貞は化粧坂を突破できずに、稲村ケ崎に転進したとあります。
源頼朝が要害の地として選んだ鎌倉は新田義貞の後にも、南北朝の争覇の中で何度か攻め落とされ、少なくとも戦国期にはここに本拠地を構える有力御家人はいなくなりました。
今残っている坂は源氏山公園から住宅地に下っていく通路の一部分です。
当時はここに大軍を展開したという事なのでもっと長く防衛地としての諸設備を整えた場所だったと推測されます。
現在残っている場所は地勢的に化粧坂の出口の一部ぐらいではないかと思います。
【国指定史跡】…「鎌倉七口」の一つとして指定。
坂名の由来は諸説あるそうです。
…「化粧」=「けわい」から①険しい坂”が変じた ②木が多いので“木生え坂”が転じた ③平家の大将の首を化粧して首実検した場所 ④坂下に遊女がいたから ⑤坂の上が商取引が盛んで“気和飛坂” ⑥鎌倉の都への入口で身だしなみを整えた…etc。
整備されていない山道です。
滑りにくい靴じゃないと危険ですよσ(^_^;)。
この坂にはいろいろな字があてられていますが吾妻鏡には「気和飛坂」、江戸時代の地誌、新編鎌倉志・鎌倉撹勝考および新編相模国風土記稿等には「仮粧坂(けわひざか)」の文字が用いられています。
現在では「化粧坂」と書いて「けわいざか」というのが一般的です。
急ですが、距離が短いので、犬にも人間にも、アスレチック感をちょっと楽しむのにちょうどいいように思います。
雨上がりに行ったせいか、地面が滑りやすく、トレッキングシューズでよかったです。
運動靴だと転んでたかも。
鎌倉時代、武蔵国から鎌倉に入る入口にあたり、「都に入る前に身なりを整えた」ことから化粧坂(けわいざか)と呼ばれたという(wiki)。
観光で通るには少し険しい道。
化粧坂の上は、さながら昔の交差点のようで、海蔵寺、銭洗い弁天、源氏山公園、寿福寺への山道が交差する。
結構険しい道ですが距離はそんなに長くはないと思います。
登りきったところに源氏山公園かあります。
道には緑が多くちょっとした山登り気分が味わえ、歩いていて気持ちがいいです。
鎌倉七切通しのひとつがこの化粧板切通しです。
鎌倉に七つある切通しのうち散策して特に楽しいのは、朝比奈切通し、名越切通し、釈迦堂口切通し、化粧坂かと思います。
この4つの見所ある切通しの中でも異色なのが化粧坂です。
亀ヶ谷坂は北鎌倉から扇ガ谷に抜ける道として便利なのでいまでも日常的によく使われているようですが、切通しの頂上部分は車両通行止めなので徒歩でしか通ることができません。
途中は舗装は無く、軽い登山程度の道もあり、雨が降った後は少しぬかるんだりして滑りますので、それなりな靴を用意して歩くことをお勧めします。
駅から近く切り通しの雰囲気を感じ易い。
しかし、急傾斜であり、かつ下部は湧き水により常に濡れていて滑ります。
ちゃんとした運動靴で行くことを勧めます!
名前 |
仮粧坂切通 |
---|---|
ジャンル |
|
電話番号 |
0467-23-3000 |
住所 |
|
営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
評価 |
3.8 |
化粧(けわい)坂鎌倉7口の一つで扇ガ谷(おうぎがやつ)と源氏山公園を通る切り通しと呼ばれる道時間の都合上切り通しを通過できなかったので後日踏破したいものだ。