崖を這い上がるような感じですね。
それほど距離は無い坂だが一部は常に湧き水が流れている何度も通っているが今冬初めて知った事がある坂を下りて行ったらかかんで地面を見ていたおじいさんが私の気配に気付き顔をあげ目が合った途端言った「ここらの石には鎌倉で唯一貝が混じってるのを知っていますか?」と知らなかった私にご一緒してくださり坂を登り返して貝を探し写真に撮りました本当にあちこち足元の石に貝が埋まってますおじいさんは元 社会科の先生でした坂の始まりのエリアは今夏ひぐらしが半端なくて完全にサラウンドでした♪写真は2022年10月と2023年2月撮影。
亀ケ谷坂切通や極楽寺切通とは全く違って、崖を這い上がるような感じですね。
極楽寺切通も、かなり削って車が通行できるようにしたということなので、当時はこんな感じだったのかもしれないですね。
新田義貞が諦めて、稲村ヶ崎へ廻ったのも分かる気がします。
化粧坂を登りきったところにあった案内板には、以下のことが書かれていました。
仮粧坂は、鎌倉の北西から武蔵方面に抜ける「鎌倉往還上ノ道」 (武蔵路)の出入り口に当たります。
鎌倉の交通の要衝であったことから、元弘3年(1333)の 新田義貞の鎌倉攻めでも戦場となっています。
『吾妻鏡』 建長3年(1251) 12月3日条には、鎌倉の中で小町屋及び売買所を構えても良い場所の一つとして「気和飛坂山上 (仮粧坂の山上)」と書かれています。
坂頂上部は葛原岡とも呼ばれ、元弘2年(1332) 後醍醐天皇の倒幕計画に関わった日野俊基が斬首された刑場でもありました。
指定地内北側には地蔵像や五輪塔などの浮彫りをもつ特徴的なやぐら群 (瓜ヶ谷やぐら群)があります。
また 周辺の発掘調査では多数の火葬跡が発見されており、仮粧坂が交通の要衝であると同時に、都市鎌倉の境界に位置する葬送の地であったことが明らかになっています。
なるほど、「鎌倉の結界に位置する葬送の地」なので、処刑場もこの辺りにあったのですね。
なんとなく、当時の人の生死感に触れたような気がします。
鎌倉の七口、切通を見ようと北鎌倉駅から建長寺方面へ向かい、長寿寺横を登り、亀ヶ谷坂切通を下り、JRの高架下をくぐり、海蔵寺さんの手前の案内板に従って、左に曲がって少し登ると急に舗装道路が無くなります。
草木に覆われた道を登って行きます。
上がって行くと子供たちの声が聞こえてきます。
源氏山公園で遊んでいる子供たちの声のようです。
ほとんど手を加えていないようなので、往時の面影を感じられるような道です。
攻め込んできてもこれだけ細い道では大勢が通れません。
ハイキングコースを歩くとわかりますが、かなり急峻で狭い尾根筋が鎌倉を取り囲んでおり、このように切通で、通行できるルートを制限した鎌倉時代の知恵を感じられます。
化粧(けわい)坂鎌倉7口の一つで扇ガ谷(おうぎがやつ)と源氏山公園を通る切り通しと呼ばれる道時間の都合上切り通しを通過できなかったので後日踏破したいものだ。
銭洗弁天までの近道ですが険しい道です。
崖を登るような感じです。
でも舗装されたようで、3年前より登りやすく、頂上まで近くなりました。
きれいな道を通るのもいいですが、何故かこの険しさに、はまっています。
崖を登る降りると考えた方がよろしいかと‼️決してミニスカートにサンダル等で行かないように‼️
亀ケ谷坂切通と比較にならない急峻な切り通しです。
距離こそ大した事はありませんが、ほぼ整備されて居ない道なき道は、雨や雪等が降った後にぬかるんだ場合、滑りやすい靴、子供や高齢者にとってとても危険な場所となり得ます。
距離は3〜4倍に伸びますが、平坦な道を迂回した方が疲れず安全に移動出来ます。
海蔵寺から源氏山公園に行き、銭洗弁財天や葛原岡神社へ行きたいと思い、グーグル検索をすると源氏山公園まで徒歩33分。
地図を見ると近いので、なんとかいけないかと検索すると、この化粧坂切通を通るとかなり短い時間で行けると知り、初めて通りました。
海蔵寺から、鎌倉駅方面に少し歩くと看板があります。
矢印の方向に緩やかな坂を登って行くと左手に銭洗弁財天の看板が見えますので、そのまま登って行くと、予想を超えた急な山道?階段?が。
行った日は晴天でしたが、地面はぬかるみ、落ち葉もあるので滑らないか心配でしたが、幸い登りなのでなんとか登りきる事が出来ました。
思った以上に距離もありました。
一段が大きい石もあるので、小さいお子さんや年配の方には厳しいと思います。
下りてこられる方と私達登って行く人が、お互い声を掛け合い、励ましの言葉を掛け合って優しい気持ちになれました。
とても厳しい坂?階段?ですが、短い時間で源氏山に辿り着けます。
海蔵寺近くの案内看板から源氏山公園までの写真を添付します。
切通の入口までの坂を登ってきたので、ココで引き返せないと思い、自転車で…担いで登りました。
かなりの急な道で、短距離の切通でしたが、3回ほど休憩してしまいました。
徒歩でも(自転車がなくても)キツイと思います。
亀ヶ谷切通と打って変わって厳し目な化粧坂。
スニーカーがオススメですけど距離も無いので頑張ればなんでも行けます歴史を感じられるかどうかはアナタしだいです (`ω´)キリッ
スニーカーでも注意が必要。
雨の日や雨上がりで地面が濡れている場合は滑りやすいです。
小さなお子さま連れやベビーカーで登っているがいましたが危険なのでやめましょう。
鎌倉の7つの切通のうちの1つです。
源氏山公園に続いています。
登山靴でなくてもいいですが、サンダルやハイヒールは避けた方がよいです。
和歌山の熊野古道のような古道の事をいいます。
長い間横浜に住んでますが…初めて知りました。
特に惹き付ける観光物はありませんが…源頼朝像を見る時に通り明らかに雰囲気が違うのでそこそこ楽しめました。
歴史遺産なので、坂のみ自然のまま、整備禁止。
なので、歩きにくいですよ。
主要道のころはお茶屋さんがたくさんならんでいたそうです。
ほぼほぼ獣道です。
ちょっとだけ幼少の頃を思い出し駆け降りてみました。
歩きやすくて滑りにくい靴で行くことをおすすめします。
2020年5月24日自転車で扇ヶ谷方面から入りました。
坂ノ下に自転車を置き、短い坂を登ると源頼朝像のある源氏公園に着きます。
駅から近く切り通しの雰囲気を感じ易い。
しかし、急傾斜であり、かつ下部は湧き水により常に濡れていて滑ります。
ちゃんとした運動靴で行くことを勧めます!
鎌倉七切通しのひとつがこの化粧板切通しです。
鎌倉に七つある切通しのうち散策して特に楽しいのは、朝比奈切通し、名越切通し、釈迦堂口切通し、化粧坂かと思います。
この4つの見所ある切通しの中でも異色なのが化粧坂です。
亀ヶ谷坂は北鎌倉から扇ガ谷に抜ける道として便利なのでいまでも日常的によく使われているようですが、切通しの頂上部分は車両通行止めなので徒歩でしか通ることができません。
途中は舗装は無く、軽い登山程度の道もあり、雨が降った後は少しぬかるんだりして滑りますので、それなりな靴を用意して歩くことをお勧めします。
結構険しい道ですが距離はそんなに長くはないと思います。
登りきったところに源氏山公園かあります。
道には緑が多くちょっとした山登り気分が味わえ、歩いていて気持ちがいいです。
鎌倉時代、武蔵国から鎌倉に入る入口にあたり、「都に入る前に身なりを整えた」ことから化粧坂(けわいざか)と呼ばれたという(wiki)。
観光で通るには少し険しい道。
化粧坂の上は、さながら昔の交差点のようで、海蔵寺、銭洗い弁天、源氏山公園、寿福寺への山道が交差する。
急ですが、距離が短いので、犬にも人間にも、アスレチック感をちょっと楽しむのにちょうどいいように思います。
雨上がりに行ったせいか、地面が滑りやすく、トレッキングシューズでよかったです。
運動靴だと転んでたかも。
【国指定史跡】…「鎌倉七口」の一つとして指定。
坂名の由来は諸説あるそうです。
…「化粧」=「けわい」から①険しい坂”が変じた ②木が多いので“木生え坂”が転じた ③平家の大将の首を化粧して首実検した場所 ④坂下に遊女がいたから ⑤坂の上が商取引が盛んで“気和飛坂” ⑥鎌倉の都への入口で身だしなみを整えた…etc。
整備されていない山道です。
滑りにくい靴じゃないと危険ですよσ(^_^;)。
この坂にはいろいろな字があてられていますが吾妻鏡には「気和飛坂」、江戸時代の地誌、新編鎌倉志・鎌倉撹勝考および新編相模国風土記稿等には「仮粧坂(けわひざか)」の文字が用いられています。
現在では「化粧坂」と書いて「けわいざか」というのが一般的です。
「けわいざか」と呼びます。
観光地としては全く有名ではありませんが、太平記などを呼んだ方には鎌倉七口の一つと言えば想像力を掻き立てられる場所です。
源頼朝は自らの本拠地として三方を山に囲まれ一方が海となっている要害の地鎌倉を選びました。
そしてその鎌倉への入り口として鎌倉七口が整備されたのです。
実際に新田義貞による鎌倉攻めの折にもこの化粧坂は激戦の場となりました。
梅松論にも新田義貞は化粧坂を突破できずに、稲村ケ崎に転進したとあります。
源頼朝が要害の地として選んだ鎌倉は新田義貞の後にも、南北朝の争覇の中で何度か攻め落とされ、少なくとも戦国期にはここに本拠地を構える有力御家人はいなくなりました。
今残っている坂は源氏山公園から住宅地に下っていく通路の一部分です。
当時はここに大軍を展開したという事なのでもっと長く防衛地としての諸設備を整えた場所だったと推測されます。
現在残っている場所は地勢的に化粧坂の出口の一部ぐらいではないかと思います。
中途半端に整備された崖です。
鶴岡八幡宮から源氏山公園へ歩いていこうとGoogle Mapsにナビを頼んだところ、ここを通るルートを提示されました。
ここは道ではないと思いますが、鎌倉時代を感じることができました。
ただただ危なっかしい坂です。
体力に自信がない方は避けた方がよいでしょう。
獣道の間違いではと思うほどの急激な坂。
当たり前だがバリアフリーではないのであしからず。
風景として、ここが鎌倉と知らなければ不安でしかない道。
本当に道なのかと不安になることであろう。
迷わず突き進むべし。
結構な斜度の岩坂。
町から近いからと言って油断禁物。
それなりの靴で行く必要あり。
雨・雪の後は、滑りやすく要注意!
観光気分で行くと痛い目に!間違ってもハイヒールなどで行かないように!
住宅地の道を上ってゆくと突き当たるところから始まる。
常に水が流れているので滑らないように注意。
ぬかるみがあり上りも下りも滑りやすく危険です。
サンダル履き注意です。
鎌倉攻めの激戦地。
当時が偲ばれる急坂です。
2016/05/01は、鎌倉山から下山で化粧坂口を利用した。
4/27から5日ほど経過したから、しみ出る水も収まっていた。
しかし、下りは上りよりも非常に危険である!慎重に足場やルートを選んで下山した。
下るとき鎌倉山公園から若者の大きな声が化粧坂に響きわたった!思わず『禅秀の乱』が勃発したかと錯覚をした。
(宴会でもしているようだ) 新田義貞が鎌倉攻めをしたとき、このように兵の声が響き渡ったのであろう。
ここも、いつまでも残したい場所の一つです。
04/27に海蔵寺から化粧坂切通を通って鎌倉山まで行き、葛原岡神社脇から鎌倉五山第四位の浄智寺まで足を伸ばしました。
「化粧坂切通」は、かなり急勾配な砂岩質の岩肌から清水が垂れており、足元は非常に滑り易くなっていました。
距離的には、然程たいした長さは有りませんが、何しろ急勾配ですから、足ごしらえしてから登るようにして下さい。
化粧坂切通は、鎌倉七口の一つで、鎌倉に住む者にとっては、南は相模湾、西、北、東側は山に囲まれた土地であるため、海から出入りするには船を海岸に寄せればよいが、陸路で鎌倉に出入りするには山を越えなければならない。
京都の公家の九条兼実が立地条件を踏まえて鎌倉のことを日記「玉葉」に、「鎌倉城」と書いている、確かに要塞都市と呼ぶべき立地条件である。
生活の為、山を切り崩し鎌倉に外部との出入りの為の道を開削したのである。
元弘三年(1333)に新田義貞が巨福呂坂、化粧坂口、極楽寺坂口の三ヶ所を攻めた。
自らは十万騎で洲崎(深沢、山崎、寺分)攻撃に当った。
洲崎には、赤橋守時、南条高直ひきいる60万の兵が布陣されていた。
5/18に両軍は65回も激戦を繰り返し、幕府側の兵は300まで減って赤橋も南条も腹を切り、90名が追腹を切った。
義貞はこれで一気に山ノ内、極楽寺方面に侵入出来た。
義貞は弟・脇屋義助とともに化粧坂切通を攻撃した。
「一族達ヲ前後左右に圍セテ、其勢三万余騎ニテ化粧坂ヲ堅メタリ」が、義貞は激戦を制圧して化粧坂を突破し、鎌倉は稲村ヶ崎の岬の先端、巨福呂坂などから乱入した兵に蹂躙されて幕府が滅ぶのである。
この後も化粧坂は義貞の子、義宗と義興(よしおき)が上野から攻め込んだときや上杉氏が鎌倉御所・足利持氏に反旗を翻した「禅秀の乱」の戦場となった。
曽我五郎と梶原景季(かげすえ)と遊女の虎が展開する『曽我物語』の舞台も化粧坂下の梅ヶ谷(うめがやつ)である。
坂の上は葛原ヶ岡(くずはらがおか)に連なり、葛原岡神社や幕府を倒そうとして失敗した日野俊基(ひのとしもと)の墓がある。
葛原岡神社の北には、これも鉈で尾根を断ち割ったような掘割が掘削されている。
戦国時代の空堀であり、名越の大切岸とならぶ重要な遺構である。
歴史好きには堪らない場所が目白押しですよ!!
名前 |
仮粧坂切通 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0467-23-3000 |
住所 |
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営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
評価 |
3.8 |
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建長寺から銭洗弁天に徒歩で行く途中に通ることになる道です。
短いですが土が露出した山道なので雨の日に行くと危険です。
普段でも行くならしっかりした靴が必要です。