こちらに相馬師常の墓があると知り、訪ねてみました。
鎌倉時代の武将。
相馬師常の墓所。
落石があったようで、閉鎖されていました。
手前の石碑は近年に修復されて、読みやすくなっていました。
一応、“私有地”内なんですよね。
それでも、敷地外から観られるだけ幸せです。
岩盤の風化により、崩落の危機に瀕しているようですが、なんとか保護出来ないものですかね…。
麓一帯が鎌倉時代の千葉家邸址で、切岸側面には相馬師常公の矢倉が存在する。
山上に父君の千葉常胤公の御廟と伝わる矢倉と、浄光明寺に抜けれる隧道型切通があるが“私有地”の為にそちらは完全非公開。
相馬師常公の御廟所も私有地だが、地主さんの御厚意で木の柵の外側から見学出来る。
常胤公の御廟を含め“私有地”である事と落石の危険や登山口の劣化による安全性の問題の為に一般の方は立入不可能。
“私は個人的に地主の方に許可を頂いて”おり立ち入り写真を撮影しましたが、皆さんは入れません。
常胤公の御廟所の近くには浄光明寺に通じる隧道型の切通が現存し、鎌倉防衛網の亀谷と巨福呂(小袋)谷切通を裏側でショートカットし兵を山上に展開しやすい縄張りを構築している。
隧道は現在、地主サンと浄光明寺サンの土地の境界線の為に木の格子で封鎖され通行出来ないが、抜けると浄光明寺の冷泉為相公の御廟所に出られたそうです。
ちょっと奥ばった住宅街の奥の山のたもとにある少しじめ〜として威圧感がある千葉常胤の子であり相馬氏初代当主であり座禅をして往生したらしくて当時は崇拝の的だった鎌倉時代の武将・相馬師常殿のお墓🙏木の柵が頑丈に閉められていて彼の墓が拝めないのが残念(泣)😞😞😞まるで牢屋みたいな感覚がして儚さを感じた(泣)
千葉一流。
鎌倉にも。
私事,伝承によれば直系と思われる相馬氏を頂く末裔の者師常公参りに福島は相馬神社もこちらへも幾度も参拝したが鎌倉やぐらは力が強すぎるのか不思議と体調を崩す。
相馬氏の祖である相馬師常の墓である。
やぐらの中に宝篋印塔があり、寺域にない単独の墓として見応えがある。
2016/04/29に偶然立ち寄る。
英勝寺からJR横須賀線の踏切りを渡りちょうど反対側の住宅地の突き当たり扇ガ谷2丁目9-10辺りにある「相馬次郎師常(そうまじろうもろつね)の墓」と伝わる「やぐら」である。
このヤグラ前には3列に敷板が敷き詰められて参道が目安になる。
師常は千葉常胤の次男で、常胤から相馬御厨を譲り受けて「相馬」を名乗る。
1189年(文治5年)、源頼朝の奥州征伐では、父常胤とともに従軍して武勲をあげ、「八幡大菩薩」の旗を賜った。
『吾妻鏡』によると、1205年(元久2年)11月15日、端坐合掌したまま極楽往生を遂げたという。
扇ヶ谷の鎮守・八坂大神は師常の創建。
名前 |
相馬次郎師常之墓 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.5 |
寿福寺総門近くにある八坂神社(相馬天王)をお参りした時、こちらに相馬師常の墓があると知り、訪ねてみました。
(八坂神社は、相馬師常が自分の屋敷内に守護神を祀ったことが始まりとのことです)相馬師常は頼朝の重臣、千葉常胤の次男。
頼朝挙兵の際、父とともに頼朝を助けた人で、奥州合戦の功績として陸奥国行方郡(いまの相馬市・南相馬市付近)を所領として与えられ、相馬氏を名乗ったそうです。
(千葉常胤といえば「鎌倉殿の13人」では、岡本信人が演じていました。
最近は、「鎌倉殿」のキャストを思い浮かべて、ああ、あの人かと思うようになりました)石碑には、以下のようなことが書かれていました。
「相馬帥常は、千葉介常胤の次男で、相馬家を相続し、巽荒神のあたりに住んでいたが、1205年11月15日、67歳で正座し合掌したままで亡くなった。
その結縁を求めて僧俗あらゆる人々が集まった。
岩の中の宝篋印塔は帥常の墓である」信心深い方だったようですね。