★入り口は南側の通りに面しています!
12.京都【芭蕉自筆影印】①野ざらし紀行文京耳の本りて 三井秋風可 鳴瀧の山家をとふ梅林梅白し昨日ふや鶴を盗連し樫の木乃花耳可ま者ぬ姿可那伏見西岸寺 任口上人尓逢(?)て我可きぬ尓婦しみの桃の雫せよ(京にのぼりて、三井秋風が、鳴瀧の山家をとふ。
梅林梅白し昨日ふや鶴を盗れし樫の木の花にかまはぬ姿かな伏見西岸寺、任口上人に逢(?)て我がきぬにふしみの桃の雫せよ )【句碑】①北音戸山橋の下京都市右京区鳴瀧蓮池町Google Mapに句碑表示有梅白しき能ふや鶴を盗禮し(梅白しきのふや鶴を盗れし)「自筆『梅白し』ほか連句懐紙を拡大」②西岸寺京都市伏見区下油掛町898我衣に婦し美能桃農(?)志徒くせ與(我衣にふしみの桃のしつくせよ)(我がきぬに伏見の桃の雫せよ)③詠地付近になし(樫の木の花にかまはぬ姿かな)別市町村 群馬・前橋市・香集寺《施設・句碑拡大写真はgoogle検索「芭蕉句碑の解読」》
★入り口は南側の通りに面しています!油商人が転んで油を落としてしまった後、残った油を半ばやけになってお地蔵さんに掛けられたところ、後に商売が成功したのだそう。
松尾芭蕉にちなんだ石碑もらありました。
町中を歩いててひょろっと見つけた地蔵さんお地蔵さんは石仏なのに、油で真っ黒に光ってて、お供え物には油ばかり。
お地蔵さんの表面の油の厚さは、2cmくらいになってるとか。
油をお地蔵にかけたら、商売繁盛のご利益があるんだって鳥羽伏見の戦いでお寺は焼けたそうで、再建されたお寺に安置されてました。
住職さんのおられるタイミングで訪問したいお寺です。
油懸地蔵尊があります。
こちらは油掛地蔵がまつられています。
今のご住職は他のお寺と兼任でお寺に務められておりますので、彼岸やお盆はお忙しいようです。
事前にご連絡することでご対応頂けるとのこと。
社務所にどなたかいらっしゃれば、200円をお渡しして、お地蔵様に油を掛けてお参りできます。
油懸地蔵様で有名。
ぬらりと光るお地蔵さま。
昔はどういった見せ方をなさっていたのだろう。
その昔 山崎に油商人がいました。
山崎は 京都府と大阪府の境にある地域で 今の大山崎町を指します。
その山崎の油商人が油を売るために出かけ、西岸寺の門前あたりまで来たところ、うっかり油をこぼしてしまいます。
油商人は 商売にとって大切な油をこぼしてしまったことに対して ひどく落ち込みます。
しかし どんなに落ち込んでも、こぼしてしまった油はどうにもなりません。
そこで 商人は仕方なく わずかに残った油を西岸寺のお地蔵さんに掛けて帰りました。
その後、油商人は大いに栄えて大長者になったと言われています。
そんなことから 油掛地蔵尊には商売繁盛のご利益があるとされているわけです。
もちろん 油をこぼした油商人が 自分の失敗を反省して 商売に打ち込んだことも大長者になった理由でしょう。
油掛地蔵尊が安置されている地蔵堂は、鳥羽伏見の戦い(1868年)で類焼しますが、明治27年(1894年)と昭和53年(1978年)に再建されています。
京都市伏見区下油掛町〔西岸寺〕に芭蕉句碑(蕉翁塚)が建っている。
我衣にふしみの桃のしつくせよ 貞享2年(1685)芭蕉は西岸寺の任口上人を訪ねている。
その時に詠まれた句。
句碑は文化2年(1805)に建立された古い碑だが、明治12年に改修されている。
山崎では鎌倉期から戦国後期まで特権を得て西日本の広範囲にわたり神職が出向いて油の販売をしていたこと、鎌倉期の石仏がここにもあること(知ってる範囲では岩倉大雲寺近辺、白川街道と今出川の交差点など)、そして油懸地蔵の逸話と、その話が秀吉が伏見の町をつくった頃にはもう相当知られていたこと…等々知ることができました。
-(※同じ伏見区の深草にある「西岸寺」(浄土真宗)とは別のお寺です)
名前 |
西岸寺 |
---|---|
ジャンル |
/ |
電話番号 |
075-601-2955 |
住所 |
|
評価 |
3.5 |
初めて行かせていただきました。
勉強不足で知らなかったのですが、親鸞上人縁のお寺のようです。