全性寺の裏手にある神社。
全性寺の裏手にある神社。
岡登景能を祀る神社昔は近所の子供達の絶好の遊び場所だった子供が少なくなった現在はひっそりと佇む静かな神社になってしまった。
長く細い境内で奥に行くほど幹線から離れるので神秘さがましてグッド。
岡登霊神社(おかのぼりりょうじんじゃ)御祭神 岡登景能公名代官岡登景能を祀る。
社殿は昭和49年再建。
地区村民が岡登景能(おかのぼりかげよし)の恩に報いるため、宝暦2年(1752年)神明宮境内に社祠を建立し「岡登霊社」とした。
鳥居を潜りまず左手に社務所があります。
それから素戔嗚命を祀った天王社があります。
大きい石碑や代官岡登景能公事蹟絵図の案内板があって、その先に立派な囲い塀と神門の中に岡登霊神社の社殿があります。
岡登霊神社の右側の参道を更に奥に進むと、郷社神明宮があります。
岡登霊神社は薮塚神明宮を勧請した岡登景能が祀られているのですが、社殿は薮塚神明宮よりも立派で、境内社というよりも別神社に近い印象を受けます。
代官岡登次郎兵兵衛景能公は 武州高柳村(埼玉県児玉町)に生まれた承応三年(1654)幕府代官に任用され 父景親に従い吾妻郡東村岡崎新田開発に榛名湖を源とする沼尾川より引水し多くの水田を拓いた。
大間々扇状地帯にある笠懸野は古渡良瀬川の河床であったため、いわゆる不毛の地であった、景能公は寛文九年(1669)笠懸野に赴任し鹿之川に陣屋を設けて管内を綿密に調査測量の上農民のために開発の許可を得た。
そして足尾町を起点とする銅山街道沿いに地区割を設け、久々字 桃頭 本町 大久保 山之神 六千石 権右衛門 溜池と不毛の土地2052町歩を開発し原八ヶ村を新設した。
更にこの地に水を引くべく大間々地内の渡良瀬川右岸(蕪町)より岩盤を刳り抜いて取水口を設置し三俣分水により用水を西南に二分するなど難工事を重ね念願の笠懸野を潤す岡登用水を完成させたのである。
開拓住民の安住は先づ敬神崇祖の精神をと大原神明宮をはじめ五社三寺を創建して民心の安定に心を盡くした。
偉大な事蹟を重ねられた公は貞享四年十二月三日(1687)冤罪を被り自刃された 齢五十余才と伝えられている 遺骸は笠懸町国瑞寺に葬られその功績を認められ大正四年 従五位を贈られた。
地区村民は公の恩に報いるため、宝暦二年(1752)京都吉田神道家に神号下付の運動を行い「顕信霊神」の神号が下付され、ただちに本町村神明宮境内に社祠を建立「岡登霊社」とした。
(境内岡登霊神社案内板より)
こちらには、徳川幕府の代官であった岡上景能(おかのぼりかげよし)が祭られています。
景能は有能な官僚であったようで、数々の業績を残しています。
足尾銅山の奉行として、江戸への最短輸送ルートを、笠懸野の原野を切り開いて貫通させました。
また、原野であった笠懸野に用水を開削し、原野は新田と多くの村々に生まれ変わりました。
その手腕が余りにも鮮やかであった為、周囲の妬みを買い、讒言によって江戸へ召喚されることになり、道中の駕籠のなかで切腹して果てたとのことです。
しかし百姓達は、彼の偉さを知っており、神社に祭って、その遺徳を慕いました。
「出る杭は打たれる」の例えは、いまも昔も変わらないということでしょうか(^_^;)
立派な社です。
入口は神明宮と同じですが途中から参道が分かれます。
ポケモンgoのスポットが5カ所、ジムも有りポケモン好きの方は是非きてください、みどり市の岡登用水を引いたら功労者の祭られています、歴史ある場所です。
名前 |
岡登霊神社 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.8 |
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御朱印は、有りません。
が、道路から奥に入るため、静かで落ち着いた神社です。
もう少し手が入ればいいかな?