堀がほぼ全周し、この内側には土塁が巡らされています...
桜が綺麗でした。
跡なので何にもありませんが、説明文見て歴史を感じることができます。
あたり一体の史跡が広範囲に色々関連しているので面白い。
史跡としての観光価値は、応分の知識と研究対象であるかどうかにより異なってくるでしょう。
私にはそのいずれも備わっていないので史跡の価値を正確に表現できません。
源氏が関東に根を下ろした時代の平均的な屋敷のサイズ感を感じたぐらいかもしれません。
なおこちらは本当に住宅街の中にあり、かつ史跡整備も表面的な部分に限られており、車でしか行けないにも関わらず駐車場がありません。
※私は案内板前のスペースに一瞬だけ止めましたが‥
2022/10/10まさかの素晴らしい保存状態に感動。
折れがあることからも北条氏管理時期に北条氏によって改修されたに違いない。
住宅地の中でよくぞここまで遺ったものである。
鎌倉時代から戦国時代にかけて使われた方形居館跡が残っています。
立派な土塁が残り、きれいに整備されている。
駐車スペースは2,3台分あります。
館跡の空堀があるだけで、中央部分には何もありません。
公園のようです。
駐車場も特になく、館跡の案内板の前に砂利が空いてあって車が停められます。
見た感じゲートボールとかソフトボールとかするような感じの公園のようになっています。
読み・・・えだやかた所在地・・・群馬県太田市新田上江田町(旧新田町)別称・・・江田城築城年・・・1210年頃築城者・・・江田頼有主な城主・・・江田氏、矢内四郎左衛門江田館は、江田行義の館と伝えられている。
江田行義は新田一族で、新田義貞の鎌倉北条征伐に参加し、極楽寺坂口の大将として軍功をたてた。
戦国時代になると、江田館は反町館とともに金山城の支城として改修され、金山城主由良氏の四天王の一人、矢内四郎左衛門の居城となった。
1584年、北条氏が金山城を攻める際、北条氏は江田館を奪い、金山城攻撃の拠点とした。
1590年に北条氏が滅亡すると、江田館は廃城となる。
畑の中にあった館跡としては、遺構がよく残った城跡です。
北東方向にある家臣の屋敷跡も外側から見られます。
普通は土塁で堀を埋めて畑にしたりしますよね。
本郭の北側にある祠は新田義貞公をお祀りしているようで、明治時代に金山城跡に新田神社を創建したときにここの祠から分祠したとか!ここも新田荘遺跡の江田館跡で国指定です。
比較的綺麗に堀が残っている。
桜の花がきれいに咲いていた。
遺跡跡。
中世の城跡です。
水があったらしい堀が有り郭も有ります。
グルッと空堀に囲まれた50メートル四方の館跡。
土塁に桜が植樹されていて、春には花見が良いかも。
中世の地方豪族の屋敷跡(敷地・外構)がとても綺麗に保存されています。
建造物はなにもありませんが、往時の面影を偲ぶことができますよ。
良く整備されていて中世の館跡の構造が良くわかる。
おおたんの史跡スタンプラリー2018で訪問。
実際には添付のような案内板と小さな砂利の駐車場があるだけです。
夏は、蚊が沢山いるので、虫除けスプレー必須です!江田館跡は、木崎台地の西端部に立地しています。
新田荘を代表する館跡のひとつで、昭和22年に群馬県史跡第1号に指定されていましたが、平成12年に新田荘遺跡として国史跡に指定されました。
堀之内と呼ばれる部分は、東西約80m、南北約100mの方形で、堀がほぼ全周し、この内側には土塁が巡らされています。
南辺と東辺の二箇所では堀が切れ、虎口が造られています。
堀の東辺と西辺は、外敵を防御するために直角に折れ曲がっています。
周囲には黒沢屋敷、毛呂屋敷、柿沼屋敷と呼ばれる郭があり、反町館跡と同様戦国時代に城郭化されたと推定されます。
築造年を示す史料はありませんが、反町館跡と同様、鎌倉時代から南北朝時代の築造と推定されます。
鎌倉攻めに従軍した江田行義の館であったと伝えられ、その後、戦国時代には金山城主横瀬氏の家臣矢内四郎左衛門が館を拡張して住んだと伝えられています。
北側の土塁には「義貞様(ぎていさま)」と呼ばれる祠があります。
江田館跡はほぼ築造された当時の姿をとどめている貴重な館跡です。
国指定史跡の中世の武家館跡です。
鎌倉・室町時代の武士の館の遺構が良く残っています。
土塁も堀も見事です。
地域で残されてきた中世居館跡。
土塁と堀で囲まれた単郭の館であるが、とても残りがよい。
また周囲には、東に黒澤屋敷、北に毛呂屋敷、柿沼屋敷という居館跡が隣接しており、いずれも土塁や堀跡が残っている。
ただ、それらの周辺の居館跡は現在も屋敷地として使われているため、見学は周囲から見るだけにとどめた方がよいでしょう。
それでも十分に遺構を確認することができます。
小さいながら、防御の様子がよくわかる戦国時代の城跡。
空堀と土塁が残る素晴らしい居館跡です。
中世の豪族の居館の構造や規模を知る上で、貴重な遺跡です。
また、この界隈は史跡廻りコースになっています。
いま少し散策しやすい様に案内表示や説明文の整備と充実を計り、合わせて休憩出来る場所を作って頂きたいと思います。
世良田得川氏祖義季から4代目、江田行義の居館跡で、鎌倉末期~南北朝期の築造らしい。
現在の遺構は戦国期(由良氏~北条氏)の砦っぽい。
空堀と土塁が良く遺っており、綺麗に整備されている。
遺構としての見応え感は反町館よりも上。
山梨県にある勝沼氏館趾を思い出す。
中世館の遺構が良く残ってる
名前 |
新田荘遺跡(江田館跡) |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト |
https://www.city.ota.gunma.jp/005gyosei/0170-009kyoiku-bunka/bunkazai/nittabunka3.html |
評価 |
3.5 |
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堀之内と呼ばれる部分は、東西約80m、南北約100mの方形で、堀がほぼ全周し、この内側には土塁が巡らされています。
南辺と東辺の二箇所では堀が切れ、虎口が造られています。
鎌倉時代(AD1185–AD1333)から南北朝時代(AD1337~AD1392)の築造と推定されます。
南北朝時代の館主、江田行義は惣領家である新田義貞に従い、元弘3年(1333)に義貞が鎌倉幕府討幕へ挙兵すると鎌倉へ従軍しました。
同年鎌倉幕府は滅亡しました。
天正年間に小田原北条氏の侵攻により江田館はあえなく落城しました。