征夷大将軍の坂上田村麻呂のお墓です。
大通りから一本入った、ひっそりとした住宅街の中の公園の一角に、かの有名な征夷大将軍である坂の上田村麻呂のお墓があります。
え!?こんなところに!もっと絢爛豪華にしつらえたものじゃないの?というくらい意外な感じですが、これはこれで意外なところですごいスポットに出会えたなぁ〜、なんて気分にさせてくれます。
日本最初の征夷大将軍坂上田村麻呂の墓が、この様な小さな公園にあるとはちょっと驚きです。
石柱と鎖で区画され陵墓内には立ち入れないようになっていますが、公園で遊ぶ小さな子供達はお構いなしに入って行きます。
墓石は無く土饅頭と灯篭と石柱だけのシンプルな御墓です。
私の住む町の公園には「アテルイ、モレ」の石碑が立っています。
二人が処刑された地と言われているからです。
戦い合った田村麻呂とアテルイ、共に小さな公園に名を刻んでいます。
アテルイの石碑を立てた岩手県の方々は本当はもっと大きな供養塔にしたかったらしいのですが、市か地域の自治会か分かりませんが反対され叶わなかったそうです。
替りに選ばれた場所が清水寺です。
建立に関わったと言われている田村麻呂との縁だと思います。
アテルイの処刑に最後まで反対した田村麻呂。
毎年清水寺での供養は本望でしょう。
最初の征夷大将軍として有名な坂上田村麻呂のお墓。
小さな公園に隣接し、ひっそりとお墓と案内があります。
都の東の入口にあたるこの地に甲冑を着て立った状態で埋葬されていると伝わっており、死してなお都を守っています。
2017.05.26. 13:30坂上田村麻呂は 奈良時代に万葉集が作られた頃の758年に生誕 平安時代初頭811年に亡し朝廷の武官として活躍した武将です793年から 天皇の命を受け 蝦夷(現在の東北)征伐のため 征夷大将軍(蝦夷征伐の総大将)である 大伴弟麻呂(オオトモ ノ オトマロ)の副官として随行し 幾度かの闘い経て 翌年6月に蝦夷征討で大きな戦功を挙げ 797年には桓武天皇から征夷大将軍に任じられ 名実共に朝廷軍のトップの座を射止めた っと言う輝かしい職歴を持った人物です田村麻呂は 4人の天皇に仕え 12人もの子供に恵まれ コチラでも頑張った人物で 有名な清水寺の創建にも尽力した方との事ですまた田村麻呂は 今の京都に於て 54歳で生涯を病死で閉じましたが 嵯峨天皇は功績を称え死後に 従二位(律令制下の官位では 左右大臣に相当)を与えたと言うコトです更には 田村麻呂のお墓は ココから北東3km程にある 西野山古墓だろうトノ事です なお コノ場所の墓には 駐車場が有りませんなので私 苦労しました。
明治28(1895)年, 平安遷都1100年祭に際し整備された墓所。
遊具のあるエリアと併せ "坂上田村磨呂公園" となっています(ネーミング凄いな)。
ところで清水寺を創建したのはこの人なのですねぇ。
色々発見あり。
名前 |
坂上田村麻呂の墓 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト | |
評価 |
4.3 |
桓武天皇に征夷大将軍として仕えていた811年に亡くなり、甲冑兵杖を身につけ立ち姿のまま葬られたと伝えられる墓です。
後18世紀の絵図には花山稲荷と共に描かれ、今も田村の森として隣の勧修小学校の校歌に使われ地味に人々の中に入り、田村の森公園として坂上田村麻呂の存在を感じられる場所でした。