名前 |
永富独嘯庵墓 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
5.0 |
永富独嘯庵(1732~1766)は、享保17年(1732)長門の庄屋・勝原治左衛門の三男として長門に生まれ、名を鳳介、字を朝陽と称した。
幼くして病を得、香月牛山門下の後世方医永富友庵の治療を受けた事が縁で永富家の養子となる。
養父友庵から李東垣の医学を、養父の勧めで萩藩医井上元昌より朱丹渓の医学を学ぶ傍ら、荻生徂徠(1666~1728)の高弟山県周南(1687~1752)から儒学を学んだが、医家の養子となって医業を継がねばならぬ立場から儒者への道を断念した。
後世方を学び尽くしたが飽き足らず、京都に古方派として一家を成した山脇東洋(1706~1762)を知って門下に入り、傷寒論を中心とした古医方の研鑽を積む。
また、21歳の時、東洋の子・山脇東門(1736~1782)と共に、越前の奥村良竹(1686~1760)を訪ね、吐方の伝授を受けた。
長崎に滞在した際には、吉雄耕牛(1724~1800)にオランダ語とオランダ医学を学んでいるが、杉田玄白(1733~1817)らによる『解体新書』訳出に先立つこと12年という先見性を発揮している。
医家としては特に自らも苦しめられた梅毒の治療に新境地を開き、『黴瘡口訣』を記す。
また、主著『漫遊雑記』中の乳癌手術に言及した文章にヒントを得て、華岡青洲(1760~1835)が麻酔手術を志した事は余りに有名である。
其の業績は医学のみに止まらず、当時輸入に頼るしかなかった白砂糖の製造にも成功しており、一般には平賀源内(1728~1780)をして我が国に於ける白砂糖の始祖としているが、実際には永富独嘯庵こそが、日本の白砂糖製法の元祖なのであり、時代下って大正5年には浅田宗伯(1815~1894)の申請によって、白砂糖製造の功を讃えられて「正五位」に叙勲されている。
明和3年(1766)、病に倒れ、短い生涯を閉じたが、「未病の中に已病あり、已病の中に未病あり」を始め、“未病”の文字光る名言を幾つも遺して世を去った僅か35年の生涯は、古方を通じて治未病の真髄を究めんとした求道の道程であったといえる。
明治25年の春、医史学の泰斗富士川游博士(1865~1940)が大阪の蔵鷺庵にて無縁となって打ち捨てられていた墓石を発見し、大正14年には土肥慶蔵博士(1866~1931)によって改修されたが、平成4年に旧墓碑は剥落を理由に摸作再建され、旧碑そのものは現碑の下に安置された。