赤穂浪士で有名な、天野屋利兵衛の碑。
以前は整備されていたのですが、放置されています。
1939年8月の日付が入っているため、第二次世界大戦へと日本が巻き込まれていく時のものです。
碑文は、義侠 天野屋利兵衛之碑 公爵近衛文麿とあります。
天野屋利兵衛は大手通り東側の東横堀川に面した廻船問屋をしていた人物で、大石内蔵助に武器を調達したことから大坂西町奉行所で拷問にあったことから奉行所のたった付近に建てたのでしょうか?裏には漢文体で天野屋利兵衛を伝える文章がありますが、多くの部分が剥落しています。
国威発揚のために建立したものが、皮肉にも戦火によって剥がれ落ちたのではないでしょうか。
文章は住友総理事てで、第二次近衛内閣国務大臣になった小倉正恒のもののようです。
裏面の碑文は「頼惟實撰天野屋利兵衛傳曰天野屋利兵衛名直之大坂人為郷長世従遷於赤穂城主浅野君之門特見春顧元禄之變諸士會議直之即〇赴赤城聞其處分欲為放萬一及大石良雄興諸義士相結復讐之議〇〇〇而不出内外莫〇知之〇〇直之以其忠〇〇〇聞為良〇〇〇興直之議〇〇用兵仗〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇自潜匿三都〇〇之〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇亦不〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇二神表面剥落〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇其〇用〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇之〇也當〇〇〇〇〇〇〇之〇故始〇〇〇〇〇知他御願〇彼〇〇使直之一人〇〇〇〇〇〇〇〇〇之一言〇〇如〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇放之家資悉賜〇子〇〇〇〇〇〇〇〇〇衛門直之入京寓郭北〇〇〇〇〇〇〇〇家有篤也改名姓曰松永士〇〇〇〇昭和十四年八月 小倉正恒○ 落款」とあります。
天野屋利兵衛之碑。
本町橋の北方向、歩道沿いに建てられている。
2021年6月現在、護岸及びしゅんせつ工事でバリケードが張られて入れない。
赤穂浪士で有名な、天野屋利兵衛の碑。
天野屋利兵衛は、赤穂藩の出入商人で大石内蔵助らの討ち入りを助けるため、兵器一式を揃えた人で、武器の購入を怪しまれ奉行所に捕らえられても討ち入りが終わるまで大石内蔵助のことを黙っていたと言われています。
この碑は、昭和14年、国民精神高揚の目的で、天野屋利兵衛を捕らえ拷問した西町奉行所跡に建てられたものです。
ただし、天野屋利兵衛は討ち入り翌年に書かれた見聞録では天野屋次郎右衛門とされ、その後に天野屋利兵衛として伝承された人です。
どちらの名前も当時の奉行所の記録や浪士の書簡にはなく、現時点では空想の人物の可能性が高いと考えられます。
周辺が汚くてゲンナリ。
名前 |
天野屋利兵衛之碑 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト | |
評価 |
3.5 |
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忠臣蔵には欠かせない人物。
「天野屋利兵衛(天川屋儀兵衛)は男でござる」の台詞が有名です。