豊平区平岸2条18丁目澄川墓地にある碑。
地下鉄澄川駅前通(平岸通)を札幌駅方面に向かってすぐ。
札幌シティガイド検定にも出題される名称です。
この道路は国道230号線の基礎になりました。
ルートの一部では国道453号線と混乱することもあるのでご注意ください。
さっぽろ純連本店がすぐ近くにあります。
財政難の明治政府に代わって、東本願寺が道路開削事業を担ったようです。
澄川墓地の一角に建っています。
1969(明治2)年、明治政府によってエゾ地が北海道となり開拓使が置かれ、ロシア南下防備策が急がれた。
内政面では、東本願寺は徳川家に恩顧があり、こうした関係を重く見て東本願寺を排除しようとする動きが朝廷派(政府軍)にあり、『東本願寺焼き打ち計画』が宮中会議で決議された「全く反意がない」旨の誓書を朝廷派に提出された。
1969(明治2)年6月5日、新政府は『誓書』の代償として北海道の防備(道路開削)を東本願寺が出願。
同年9月3日、新政府が許可で決定した。
東本願寺はただちに新道切開・農民移植・教化普及の3重点をかかげ、「勅書・開拓御用(本願寺東門主)」の評札を先頭に178人は、新門跡現如(しんもんぜきげんにょ)上人=大谷光榮(こうえい18歳)を先頭に、1870(明治3)年2月10日、比叡おろしの吹く京都を出立。
「人をして蝦夷地に行くを楽しましむの歌」を道中歌にして越中・越後・酒田と北上し、「廃仏思想」の根強い秋田は海浜で青森に上陸ふたたび津軽の海を渡って函館には7月7日到着した。
本願寺道路として今に残るのは、軍川~砂原・鶉~大野・尾去別(おさるべつ)~平岸・山鼻~八垂別の4本がある。
なかでも大工事は尾去別~平岸を結ぶ26里10町(約105km)で、うっ蒼とした大森林に挑む大工事に先立って、僧侶に加え多くのアイヌを雇い、仙台伊達藩の旧士族移住者50人と他移住者50人を募ることができた。
1870(明治3)年7月、尾去別より起工し、1年3ヶ月という短期間の翌年10月に平岸終点まで完成した。
この道路が現・国道230号の前身となる。
豊平区平岸2条18丁目澄川墓地にある碑。
(天神山)平岸開基110年記念会事業の一環として、昭和55年(1980年)11月に建立。
裏面に由来を記してある。
(裏面)本願寺道路は、明治三年東本願寺現如上人北海道新道として伊達市(現)尾去別に起工。
翌四年十月この地に至り平岸街道と結ぶ。
里程二十六里十町五間、虻田街道、有珠新道とも呼ばる。
昭和五十五年九月建立平岸開基百拾年記念会(原文縦書き)
名前 |
本願寺道路終点の碑 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.6 |
澄川墓地の一角にあるお坊さんが作った道路の碑。