鎌倉時代に開かれた禅宗のお寺です。
鉄壁の鎌倉であったが新田義貞の鎌倉攻めで、新田軍に稲村ヶ崎を突破されて北条一族は執権北条の邸宅の東に建てたお寺、東勝寺にて全員が最後の時を迎えることになる。
今はただの原っぱですが、鎌倉幕府終焉の地です。
ここで最後の得宗北条高時をはじめ一族が自害しました。
東勝寺(とうしょうじ)は、鎌倉・鶴岡八幡宮の南東山裾に、鎌倉時代に開かれた禅宗のお寺です。
鎌倉幕府第三代執権・北条泰時(ほうじょう やすとき)の支援を受けて作られたお寺で、西側に流れる滑川(なめりかわ)の岸を削り落として切り立った崖状にし、東側の急な山地との間を削って平場を作っており、まるで要塞のような構造になっています。
北条氏邸宅のすぐ東側に位置していることからも、政権の最高権力者を守ることを目的として建てられた寺だと考えられています。
鎌倉時代末期の1333年、新田義貞が鎌倉を攻めた時、執権だった北条高時(たかとき)は東勝寺周辺に逃れましたが、最後には自ら寺に火をかけ、一族と家来もろとも、総勢870人以上がこの地で自害。
鎌倉幕府は滅亡しました。
この870人余りをまとめて祀った首塚が現在も敷地内に残されており、「高時腹切やぐら」と呼ばれています。
その後すぐに寺は再建され、室町時代には関東地方を代表する大規模な寺にまで復興しました。
しかし16世紀の後半(室町時代末期から安土桃山時代)には、理由は定かではありませんが、既に廃寺となっていたことがわかっています。
東勝寺跡は、北条氏滅亡の地であること、他の寺院には見られない城郭的な機能を持っていることが特異的であり、また禅宗のお寺としての格も高く、建物が建っていたことを示す遺構などの保存状態も良い、ということで、平成10年(1998年)、国の史跡に指定されました。
2021.2 現在は、建物が建っていたことを示す柱の跡などが残る敷地の周辺には、文化財保護のために柵が設けられ、一般の人は見学することができません。
特別公開の情報も見つけられませんでした。
鎌倉幕府終焉の地。
14代執権で、北条得宗家最後の当主北条高時自害の地です。
1333年、元弘3年、後醍醐天皇が隠岐島を脱出して、伯耆国船上山で倒幕の挙兵し、東国では新田義貞が呼応しました。
分倍河原の戦いで新田軍に敗れた幕府軍は鎌倉を突破され、北条高時等一族が当地で最期をむかえました。
鎌倉、室町、江戸と三つの幕府のうち、唯一権力側が全滅した例ではないでしょうか。
場所は住宅地の行き止まりにあり、訪れる人も少ないので、寂しさが伝わる場所です。
鎌倉末期から享徳の乱までの関東の歴史は複雑でとても面白いです。
北条高時自害の地。
鎌倉幕府終焉の地。
Nothing to see. The access is forbidden as of June 2018.
今は廃寺になっしまった東勝寺跡ですが、鎌倉幕府の終焉の地にもなる遺恨の地でもあります。
鎌倉幕府が文治元年(1185)に、この地に起ち上り栄華を極めた、しかし元弘3年(1333)5月の新田義貞軍の鎌倉攻めに遭い、北条高時は、小町屋敷から逃れ歴代が眠る菩提寺の東勝寺にこもった。
高時の目に150年に渡り栄えた、屋敷や商店の街並みが一面の炎と煙に包まれる様子を遠く眺め、これまでと腹切やぐらで自刃して果てた。
高時の一族郎党870余人も高時と共に自刃して果てた。
北条執権の最期となった様子は余りにも無念であった。
名前 |
東勝寺跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト |
https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/kamakura-kankou/meisho/04toushoujiato.html |
評価 |
3.5 |
周辺のオススメ
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元弘の乱で最期を悟った北条一門が自害を遂げた場所です。
この一帯は高台になっており、東側は山、西側には滑川という川に囲まれています。
このお寺を創建した人は鎌倉の市街地を一望できる要害を選んで寺を建てたのだろうと思います。
現代では建物は残っておらず、フェンスに囲まれている何もない場所ですが、NHK大河ドラマ「太平記」(1991年)で、得宗の北条高時をはじめとする一門が一斉に自害したシーンと重ね合わせたり、元弘の乱の激戦地を順に見たりした上で訪れると、感慨深いものがあります。
因みに、高時の遺児である時行は,家来に連れられて信濃(長野県)に落ち延び,東勝寺合戦から約2年後に中先代の乱を起こして鎌倉を奪還します。
時行は京都から攻め上がって来た足利尊氏に敗れ,再度鎌倉から脱走しますが,その後は南朝の後醍醐天皇から赦免を受けて,尊氏相手に各地で転戦します。
いったんは滅亡した北条氏を半ば再興させた時行は当時の人々を驚かせたようです。
時行は足利氏の手にかかって処刑されるまでの間に,各地に子孫を残したと言われており,尾張藩の重臣にして有名な俳人である横井也有や,福井藩の政治顧問を務めた横井小楠は,いずれも時行の子孫を自称しています。