楠公寺に行く前に、正行墓所にお参り。
散歩コースにあって落ち着く所です。
神社迄一本道で鳥居も綺麗になり散歩が楽しみです。
夜にはフクロウが鳴いてますよぜひ行ってみてくださいね。
結構大きな敷地に、550年の楠の木があって、かなりの存在感が在りました。
楠公寺に行く前に、正行墓所にお参り。
栄通りから行ってしまって、入口を探して墓所を一周しました。
四条畷神社とワンセットです。
入り口に立って、東側、JR学研都市線の踏切側に向かってまっすぐ道が伸びています。
その道の約1キロメートル先が、四條畷神社、背後の山は、生駒山系の河内飯盛山(かわちいいもりやま)です。
楠木正行(くすのきまさつら)公墓所は、楠木正行がその場所で戦死をした時、村人が石碑を建て、両脇に楠を植えました。
その両側の楠は石碑を包み込んで合体し大楠となって、樹齢600年、現在も生き生きと葉を繁らせています。
楠木正行については、戦前教育を受けた人は誰もが知っている、楠木正成、楠木正行親子の桜井の別れがあります。
また、楠木正行には恋人、弁内侍との別れの話も現代に伝わっています。
戦国時代という異常に不安定な時代に、愛する人たちとの絆を大事にした、ということを再認識します。
楠木正成公の嫡男である楠木正行公を祀る墓所になります。
南北朝時代の戦乱の中で、父である正成亡き後もその遺志を継ぎ南朝に武士として仕え、戦乱の時代の武将として若くして四條畷の戦いで討ち死にした武将の墓所です。
楠木正行の遺骸はこの地に葬られ、80年後に墓石脇に植栽された楠二本は現在も残り(樹齢700年以上?)墓石を包みこんでいるといるということです。
現在は社の奥に大きな墓石が建っていますが、明治11(1878)年に建立されたもので揮毫は大久保利通により「贈従三位楠正行朝臣之墓」の銘が刻まれています。
墓所建立当初はそれほど広い敷地ではありませんでしたが、その後明治いなって楠木家の再評価などにより現在の敷地よりやや広めに拡幅整備され、その後太平洋戦争や土地区画整理(改良工事)などを経て、現在の広さになったということです。
なお、墓所の右脇の広場には、楠木正成公の妻、楠木正行公の母、楠木久子(滋子)様の顕彰碑(明治35(1902)年2月)があります。
顕彰碑建立にあたっては、元大阪府知事西村捨三氏婦人、菊池大阪府知事夫人等の發企により、篆額は細川潤次郎、撰文は下田歌子が作成しています。
詳しくは「別格官幣社四條畷神社 殉節所誌」(「国立国会図書館デジタルコレクション」で閲覧可能。
)墓所から線路を越えて1Kmほどゆるやかな坂を歩きますと、四條畷神社に到着します。
(ゆるやかな坂ですが、神社の境内までは急になります)毎年3月には「四條畷 楠木公祭り」が開催され、武者行列、稚児行列や祭囃子保存会による勝ちどき太鼓などを見ることができます。
楠木正行・正時兄弟も、弟:正儀の様に「柔軟なリアリスト」やったら、また違った事になってたんと違うかな?と思わせる場所です。
河内名所図会を見ると、飯盛山の麓、畑田の中にポツンと正行墳が描かれている。
周りは水田、街道を行く商人、旅人、侍、親子連れなど。
堂々とした大木の下に立派な石碑がある。
これが今の小楠公墓所だろうか。
南朝のためにただ忠義を尽くした楠木正行。
墓所は森閑とし、静まり返っている。
太平記によると楠木正行が吉野の如意輪寺で四条畷へ攻めることを告げ、如意輪寺に一同の143人の名を記した後、四条畷で楠木正行は高 師直(こうのもろなお)に敗れ飯盛山で弟である正時とともに刺し違える。
従う32人も自刀している。
立派な楠があります。
なんとなく寂しい感じでした。
楠の古巨木と小楠公の史跡。
心が穏やかになります。
合掌。
歴史で習う楠木公の墓標なのに整備されていなくて残念。
戦時中、兵士の士気を高める為のシンボルとして、悪く言えば悪用された、ある意味かわいそうな武将です。
理由は、天皇陛下に忠誠を誓い戦った武将だったからだとか。
名前 |
小楠公御墓所 |
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ジャンル |
/ |
電話番号 |
072-876-1247 |
住所 |
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営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
関連サイト | |
評価 |
4.3 |
ナビで行くと裏手で入れない。
府道160号と162号の交差点側から入れます。
中に入ってぐるっと回ると中の楠木や、囲いの外にある碑文とかも見れます。