登りやすい山として、いいかなと思います。
遺構は割と残っていた。
標高253mの雨滝山の山頂部に築かれた山城で寒川、大川、津田の三町に跨り北東部は瀬戸内海を一望出来南西部は南海道が走り、それに沿い穀倉地帯が広がっています。
遺構は山頂部に本丸跡の平坦地があり、そこから三方に延びる尾根沿いに郭を連ねる典型的な連郭式山城です。
西側、南側に延びる尾根にはそれぞれ五段の郭、東側に延びる尾根には二段の郭が設けられています。
西側尾根には山頂部から比高約20m下るまでの間に五段の郭が連なっています。
それより下は急斜面の尾根で寒川町、津田町の分水嶺を形成し徐々に下り津田川の東岸で切れます。
南側に向う尾根は寒川町に面し良く整備された郭が五段連ね、それぞれを細い通路で連結されています。
昭和45年に最下部の郭を発掘調査し四間五面に配置された礎石が確認されました。
瓦片、明銭、釘、陶磁器片などが出土しました。
(いずれも強い火にあった形跡があり建物と共に消失したものと推定されています)城郭の構えは南方は穀倉地帯を控え搦手を形作り、北側は津田湾に向い大手を構える。
瀬戸内海に面する津田側は険峻で南側は比較的緩やかな造りです。
当城は安富盛長の築城で志度に支城を持ち、居館は南麓の大川富田付近にありました。
安富氏の本姓は紀氏で足利尊氏の随身に成り播磨三ヶ月郷を領有しました。
応安年中(1368〜1375年)の頃、細川頼之に従い讃岐に入り三木郡平木の城主と成り、長禄年間の山城守盛長の時に寒川氏より寒川郡の一部を分割され雨滝城を築き本城としました。
また、嘉吉二年(1442年)勝元が細川家の家督を継ぐと細川四天王の一人として社家奉行を努め応仁の乱の時は弟、安富元綱と共に出兵し活躍します。
応仁の乱後は讃岐十三群の内七郡領有した他、小豆郡、備中国衞領の一部も支配します。
戦国時代は細川政元氏に与し伊予河野攻め、大内義興氏の命で九州大友氏討伐に出陣したり、翌年には朝鮮出兵等、勢力保持のために努めています。
元亀年間に阿波三好長治と誼を通じ寒川氏を退けようとする。
三好氏には抗しきれず引田、虎丸両城を明け渡し昼寝城に退しました。
以来、引田城には三好勢、虎丸城には安富盛定が入り雨滝城には安富氏の家臣六車宗旦かわ入ります。
天正六年、土佐の長曽我部元親軍が国境を越え讃岐に侵攻。
天正十一年に引田城を陥れると雨滝城の攻略にかかり元親軍は田面から石田村に入り雨滝城に対した。
雨滝城主、安富盛定は豊臣秀吉と臣従を誓っていたので土佐方に降ることはせず小豆郡の仙石秀久に身を寄せた。
雨滝城を守っていた六車宗旦も元親の大軍の前には抗しきれず土佐方に憐を乞い伏した。
同年五月のことであります。
大変良い状態で遺構(郭跡、堀切、石垣等)が残っています。
また本丸(頂上)から見る津田、白鳥方面の瀬戸内海は実に美しくです。
大変見所の多い城跡です。
山頂までの道は滑りやすいので、杖と山歩き用の靴があればよいかと思います。
眺望は東に開けていて、淡路島〜鳴門、馬篠〜津田方面が見渡せます。
西から上る登山道は車を停めてから300メートルの道のりで登れる初心者向け登山コースがある。
しかし距離的には短いが、勾配がキツイ所が、半分ぐらいある。
靴はスニーカーより、引っ掛かりのある登山靴よりのものが安心だ。
山頂からの眺望は北東から南東に向けて開けている。
冬場で空気が澄んでいれば、淡路島にある風力発電の風車が望める。
北西に庵治の五剣山も遠くに見える。
初日の出スポットとし有名だが、日が昇る方向に、山があるため日の出予想時刻より少し遅くなることが予想される。
自分の末裔(安富一族)の雨滝城 毎年1、2回は 訪れています。
とても良いところです☺️
雨滝城跡(253メートル)に登るには、津田側からは急であるが、大川町からは東の尾根づたいに登ると割合なだらかな坂道である。
現在は林道が通っていて、後、300メートルだけで行けます。
ここからは15分位歩けば頂上にたどり着きます。
この山頂から北を望めば瀬戸内海を一望でき、南は富田方面、西は寒川町石田、神前方面まで遠望できます。
山頂平坦部は1000平方メートル以上はあると思われます。
一段下がってかなり広い平坦部もあります。
城主の安富盛定が長禄年間(1457-1459)に雨滝山頂に城を築き、土佐の長曽我部元親に落とされるまで、隆盛を誇っていました。
登りやすい山として、いいかなと思います。
名前 |
雨滝城跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.9 |
あと300mの坂道が厳しかったです。
子供や女性には厳しいでしょうね。