標高206mの平須山。
標高207m、比高約177m国道424号沿いに説明板、駐車スペースがあった案内図通りに歩くと登城口にたどり着き、あとは尾根をひたすら登る🧗途中からは獣電柵沿いに登りきると視界が開けて城山が目の前⛰️いきなり連続堀切♬から畝状竪堀♬がインパクトある🤩多くの曲輪群♪は草🌿で覆われてるけど 切岸♪はハッキリしてる主郭からの眺めは海まで見えた🙌チョット尾根を下りると小曲輪に堀切♪と丁寧な遮断されてる他にも横堀♪回り込ませない竪堀♪尾根を刻んだ段郭群♪などなど見所イッパイ👌数キロ離れた道の駅には平須賀城のジオラマがあるらしい城に日暮れまで居たら閉まってた😣
今、山肌補修工事行ってます麓の河や平原とのコーディネートが綺麗です 2021.11月。
標高206mの平須山。
ここにはかつて平須賀城という山城がありました。
今でもその遺構が残っており、山頂からは南部湾を一望できます!
名前 |
平須賀城跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト |
http://kisyujt.com//html/castle/wakayama/minabe/heisuga.html |
評価 |
4.0 |
🔷歴史平須賀城は紀伊守護職畠山氏の小守護(郡代)であった野辺氏が城主を務め、畠山氏の跡目争いには政長方として活躍した。
しかし南部荘の百姓らが当主野辺春和の暴政に耐えかね湯河氏に訴えたため、直ちに兵を出し平須賀城に攻め込んだため春和は敗れ越中に落ちていったという。
また野辺氏は同じくみなべ町にある高田土居城(みなべ町)の城代を務めており、政情不安のため平城である高田土居城から平須賀城に移ったのかは不明であるが、城の東側山麓で南部川に沿った平坦地を「オヤシキ」と呼ばれ、居館を構えていた可能性もある。
平成賀城は畝状竪堀群や横堀など戦国時代末期に用いられた築城工法が見られることから、その時期に大規模な改修が行われたのであろう。
🔷現状平須賀城は南部平野最奥の玉川と南部川に合流する標高206mの山頂に築かれている。
城跡からは南部平野を一望でき、また南部川上流域から南部平野入口を押さえる場所にあることから、鳶之巣城主龍神氏への抑えとしての役割もあったと思われる。
平須賀城は山頂にある天守台跡と呼ばれる高台から北側に六段の曲輪が連なった連郭式の山城である。
天守台は東西15m、南北10mの規模で虎口が明確に確認でき、西側にある細長い腰曲輪が馬場跡といわれている。
天守台から六段の曲輪を下ると3方の尾根が合流する北側斜面に畝状竪堀群が5条と、各尾根を遮断するためそれぞれ堀切で遮断している。
平須賀城は天守台がある区域と、畝状竪堀群がある北側曲輪で上下関係のある独立した勢力が詰めていた可能性があり、このような形式は県内の畠山氏城郭に見られる。
城跡は現在、年に2回草刈りが行われ形状が確認しやすく、またみなべ町内にあるうめ振興館には平須賀城の立体模型が展示されている。
平須賀城は大規模な山城であり、また遺構がほぼ当時のままの状態で保存されている貴重な城跡である。