和歌山県最大の山城です。
標高171m、比高約152m入口に案内図に説明板があった車で上がると駐車場🅿️が途中にある林道を歩いてくと🚶u200d♂️草刈りされた竪堀から曲輪に登れたここは整備されてベンチのある曲輪群がある一方、裏側をたどると凄い遺構の数々に出逢える🙌西側の狼煙台のある曲輪の堀切♬は石積♪で竪堀♪も長い尾根を切断するU字堀切♬主郭側面は石積跡♪でゴロゴロ北側の大堀切♬から堀切♪が続く東側にも岩盤削り堀切♬からの竪堀♪横には竪土塁♬がモッコリ生きてる横堀と竪堀のコンビネーション♬その他ヤブに隠れたり崖を下りなきゃ見れない竪堀などキリがない👍️いつの間にか時間が経って日が暮れてる嬉しい山城遺構だったよん🕺
日高川町指定史跡手取山城跡手取城は日高川下流にある標高168m(比高130m)の城山に築かれており、主郭部は山頂の本丸と二の丸、東の丸の部分だが東西約500mほどの規模がある和歌山県内でも規模の大きな中世山城として知られています。
【歴史】築城年代は不明ですが南北朝時代に玉置氏によって築城され、その後は日高地方を亀山城の湯川氏と二分していた。
天正13年(1585年)羽柴秀吉の紀州攻めにあたり、玉置直和が秀吉についたため湯川氏との同盟が破れ、湯川氏に手取城を攻められ落城。
紀州の実権が羽柴秀長になると再び手取城主となった。
関ヶ原の戦いでは西軍につき敗戦後に手取城は廃城となりました。
【アクセス】城跡の南側を走る道路に手取城入口の道標があり、主郭まで徒歩10分程度の標高82m地点まで車で行けます。
#お城 #城 #城跡 #山城 #城巡り#和歌山県 #日高川町 #手取城#手取城跡。
標高171mの城山の山頂にある手取城跡。
鎌倉時代にこのあたりで勢力を持っていた玉置氏が築いた山城で、東西500m、南北150mと中世の紀州で最大の規模を誇っていました。
豊臣秀吉の紀州攻めに際し、勢力を二分しながらも友好関係にあった湯川氏と対立。
湯川氏に手取城は攻め落とされてしまいました。
その遺構は手取城趾保存会の方々によって大切に保存され、当時の城の姿をしのぶことができます。
紀伊国最大の山城とされる。
玉置氏の居城。
秀吉の紀州征伐に於いて秀吉に与した為、近隣の湯川氏に攻められ落城した。
5月に登城したが下草が生い茂り、遺構の確認が難しかった。
冬に訪れたい。
紀伊最大の山城とのことで4月頭に来訪よく整備されており、素人でも遺構がわかりやすい桜の木も多く一週間も遅ければ満開だったと思われる。
東の丸と手前の二か所に駐車場が多いが東の丸の駐車場は狭く、道も対抗できないためお勧めできない(バイクなどならよいかもしれない)手前の駐車場までの道も広いといえないので大きい車は注意。
よく整備され見学しやすい。
かなり大きな山城です。
外周は、ほぼ二段堀で、出来ていました。
アレコレ有り過ぎて書けないです。
入口の看板がなんかいい感じでそそります。
しかし、頂上までの道のりは、書いてる方が何人かいた通りで、険しいです。
軽トラ四駆なら行けますが、それ以外の車両はオススメできません。
頂上の雰囲気はステキでした。
JR和佐駅から歩いて20分程で登城口に到着。
そこから更に20分程登っていくと城跡にたどり着きます。
二の丸跡に城址碑があります。
そこから少し登ったところが本丸跡です。
紀州随一の豪快無比な規模の山城です。
和佐駅からも近くアクセスも悪くないのでビギナーでも大丈夫です。
二の丸、本丸からの狼煙台は景観は一度は御覧下さい。
整備されていて散策しやすい簡易トイレあり。
和歌山県最大の山城です。
遺構の状態も良好で土塁・石垣・堀切などが確認できます。
ただ城跡までの道が険しくて大変です。
雨の日に行ってスリップしてしまい、遭難しかけました。
(なんとか脱出し、生還しました笑。
)
名前 |
手取城跡 |
---|---|
ジャンル |
|
住所 |
|
関連サイト |
http://kisyujt.com//html/castle/wakayama/hidakagawa/tedori.html |
評価 |
4.2 |
🔷歴史築城者玉置氏の祖は、平資盛の子で源平合戦時に熊野に逃れ、玉置山荘司となった蔦野十郎資平という。
南北朝時代の文和元年(1352年)ごろ、北朝方であった玉置氏一族である大宣が日高川を下って和佐に進攻し、先住者である川上則秋を滅ぼし、別所谷奥に手取城を築いた。
城名の由来は、自らの手で山崎城(日高川町)を攻略することができたので、「手取」と名付けたといい、山地玉置氏に対して、和佐玉置氏と称した。
その後領地を拡大し、野口村(御坊市)から川上福井村(田辺市龍神村福井)までと有田郡津井村(広川町津井)まで1万6千石に及んだ。
また日高川を挟んで隣り合わせである亀山城主湯河直春とは協調関係にあり、湯河直春の娘が玉置直和に嫁ぐなど親密な関係にあったが、天正13年(1585年)羽柴秀吉が紀州に攻め入った際、徹底抗戦を主張した義父である直春は娘婿の直和に対して同調を求めたが、直和が秀吉方に与しようとしたため、怒った直春は2百余人の軍勢で攻め寄せ、直和は坂ノ瀬に柵や壕を掘り備えたが敗れ、手取城は焼き払われ多くの家臣を失った直和は敗走した。
その後直和は羽柴秀長に仕えたが、軍役が軽くすむと判断し石高を3千5百石と申告したため領地が大幅に減じられ、これを無念に思い家督を息子高直に譲って出家し高野山に登った。
徳川の時代になり玉置氏は和佐の地を離れ、藤堂家や尾張徳川家に仕えたため手取城は廃城となった。
🔷現状手取城はJR和佐駅より北東1.5kmの別所谷奥にある標高171mの城山に築かれている。
城跡までは舗装された山道により軽自動車であれば東の曲輪まで登ることが出来るが、幅が狭く落ち葉により滑りやすいため、、途中の駐車場の利用をお勧めする。
手取城の主曲輪は最高所にあり、東西20m、南北40mの規模で、通称天守台と呼ばれ、今も基石の一部が残されている。
二の曲輪は主曲輪の南下に位置し、素焼きの巴瓦や布目瓦が多く出土しており、現在「手取城」の石碑が建てられている。
この城で最も広い東ノ曲輪は東西80m、南北15mあり、北東側には延長60m、高さ3mほどの大土塁があるり、当時は寺院が建てられていたようである。
二ノ曲輪と空堀を挟んで西ノ曲輪があり、中央に2.5mほどの櫓台があり、ここからは支城の山野城が望める。
また北側には蔀土塁があり、外部から見通せないように工夫されている。
曲輪はさらに西側下方に及び5条の堀切と共に墓地跡もあるという。
また主曲輪と西ノ曲輪を遮る空堀の側を「風呂谷」と呼ばれ、その東側に溜池跡とその直上にある水ノ手曲輪により守られ、今も石垣が残されている。
手取城は東西500m、南北150mの範囲に及ぶ県内最大の巨大山城であり、日高川町の文化財指定を受けている。