吉母は応神天皇の誕生地との言い伝えがあります。
由緒等は不明。
下関指定有形文化財「銅鐘」「銅製鰐口」を所蔵する。
整然としていて、それなりに見栄えも良い神社。
千木は外削ぎ、鰹木は奇数(5本)なので祭神は男神か。
吉母は応神天皇の誕生地との言い伝えがあります。
当神社は住吉神社の本宮と言われています。
JR梅ケ峠駅の隣の高台、旧梅光学院大学キャンパスは神代の軽島豊明宮だと思います。
その証拠に南北に二つの長門国三ノ宮、杜屋神社と龍王神社乳母屋社があります。
-------吉母バス停内の案内看板の抜粋若宮神社 (若宮大明神)神功皇后、応神天皇(神功皇后の皇子)、仁徳天皇(応神天皇の末子)、その他多くの神を祭る格式の高い神社。
一の宮の住吉神社の本宮であり、住吉神社の神事の中でも、ここ若宮神社への祭事は最大、最も重要な仕事であったと、神社史に明記されている。
過去3度も火事で焼失して宝物古文書等一切残ってないが、唯一銅製の鰐口と吊鐘が現存している。
四の宮師(そち) の宮神社。
若宮神社の門前鎮座の四柱の神を祭った所で、石の鳥居が残っている。
祭神は若宮神社に合祀されている。
角力田外すもうでん(伏し矢田ふしやでん、福太夫ふくだゆう、浜宮殿はまみやでん)若宮神社の御輿が神幸されて浜宮殿にお成りになり、さまざまな神事 ~ 角力、矢ぶさめ、お神楽等が行われた所。
古来、この浜宮殿御神事は一の宮神社の神官が総出で盛大にとり行ったと言われる。
毎年秋の若宮神社祭で御輿を浜の方へ神幸する行事はその伝承である。
(住吉神社年中行事に依る)黒嶋観音弁財天と共に若宮神社の末社として、神功皇后が異国におつれなされた神と言われている。
その神社を示す鳥居が入口に建っている。
黒嶋観音堂は海中より出現の観音が西の磯にあったが、東山の頂上に観音堂があった所へ飛んで行ったので、その山を観音堂と言う。
観音堂には奈良時代の僧行基の木造十一面観音像が安置されている。
誕生社神功皇后が応神天皇を出産された所。
ここの隣の浜永家の境に「エナ塚」 という石仏がある。
大将軍森明見(みょうけん)、上(かみ) の山、西光寺山と続く一帯の地名。
神功皇后の一番上の大将軍が居住した土地。
石組、井戸、池等が多く残っている。
大将軍は武内宿祢ではないかと思われる。
東光坊西国八十八ヶ所の霊場のひとつとして、寺院・末寺などの集った所。
鎮座の大仏像を厚母に売り渡したり、寺の宝物を売り出したりして寺は荒廃。
今は石組みや祠がわずかに残る廃所となった。
この大仏さんのたたりで、吉母が貧乏村になったと言い伝えられた。
この大仏は現在厚母大仏として知られている。
「吉母」 地名の由来考往古、吉母は汀(みぎわ) の里と呼ばれていたが、人皇14代仲哀天皇の后、神功皇后が朝鮮出陣より帰国の折、この汀(みぎわ) の里に軍船を寄せ、浜辺で皇子、応神天皇を出産されて、お伴の大和朝廷の人々が何年間か住んだとも言われる。
地名も皇子御誕生に因んで、寄せ藻、葦藻(よしも)、吉母と変わって来たと言い伝えられて来た。
応神天皇は福岡県蚊田(あぶた、正しくは、かた)で生まれたと言われると日本上代史(文学博士・原田常治著) により決定づけられているが、そんな事はなく、ただ蚊田神社の由来書一本のみで、外に足跡を遺す地名や伝承・神事など一切無いのは何故か。
一方吉母は長門住吉神社、年中神事の第一番は吉母若宮神社祭礼であること(住吉神社史に依る) や、吉母の各所に神功皇后、応神天皇誕生にまつわる地名、足跡、伝承が残っている。
※ 唯だ、吉母は理由(わけ) あって歴史上に隠された土地であったのである。
(※この事に関しては、別の資料に依る。
)
立派な銅葺の楼門が目に入り、立ち寄ってみました。
手水舎が楼門の中にあり、少し焦りました。
おまけ:駐車場の所に吉母富士の撮影ベストスポットがあります。
御神木の銀杏の足元には、黄色く染まった落ち葉の絨毯。
名前 |
若宮神社 |
---|---|
ジャンル |
|
住所 |
|
関連サイト |
http://www.jinja-net.jp/jinjacho-yamaguti/jsearch3yamaguti.php?jinjya=25883 |
評価 |
3.5 |
のどかな場所の小さな神社ですが敷地内、社ともに綺麗です。
地元の方々の管理でしょうか。