登山靴など滑りにくい靴で行くことをオススメします。
一部登山道が崩れかけている場所もありますが、トラローブが張ってあります。
そのローブを使えば問題なく歩けると思います。
また、城跡までずっとローブがありますので迷う事もありません。
この城は市指定史跡となっており、登山口には案内板もあります。
遺構としては曲輪、堀、土塁、石塁があります。
昼寝とは面白い名前ですね。
駐車場から近いですが険しい山道を行くため、登山靴など滑りにくい靴で行くことをオススメします。
昼寝城は鴨部川の上流矢筈山の中腹、俗称昼寝山の頂上部分に所在した。
昼寝山は山頂平坦地が二箇所あり西方100㎡東方200㎡あり西方の隅には寒川社と云う祠があります。
二箇所の郭を結ぶ幅2mの道で結ばれている。
また頂上郭の南側には土塁跡が見られ、そこから南西側を見ると3mほど下がった所にも削平地が見える。
郭跡の可能性がある。
頂上郭から南東に伸びる尾根には空堀が見られる。
その東側の一段下がった所は削平地が見られる。
郭の可能性があります。
これははっきりしないが駐車場から登り初め少ししたら自然石の多くある場所に当たる。
そこの手前は空堀だったと考えられる。
その下側は登山口の道と尾根道に別れている。
その尾根道も郭跡で下から攻めて来た敵を迎え撃つように成っているようです。
築城は嘉吉年間、城主は香川光治と云われる。
南北朝から室町時代にかけて東讃岐に勢力を誇っていた寒川氏は讃岐朝臣の姓を賜る。
室町時代に成ると長尾荘の地頭となり細川氏の被官となり大内群、寒川郡、小豆島を領し昼寝城、引田城、虎丸城を築く。
大永三年(1523年)寒川郡内の境界争いを発端に塩ノ木合戦が起き雨滝城主安富盛方と戦う。
大永六年(1526年)三好氏、十河氏軍との戦が起こり二本杉の戦いで三好氏、十河氏を敗走させる。
十河一存は仇討ちの為、寒川元政と戦うが細川春元は和睦を命ずるも盛方は従わず寒川氏を攻め池内城を奪い昼寝城を攻めたが落城せず安富氏は退いた。
元亀元年(1570年)虎丸城を三好長治に奪われ寒川氏は昼寝城に退く、その後二度に渡り昼寝城を攻めるも落城する事が出来なかった。
三度も守り切った城はあまり聞いた事がない名城である。
築城されたのは嘉吉年間(1441年-1444年)、築城主は香川光治と伝わる。
南北朝時代から室町時代にかけて、東讃に勢力を誇っていた寒川氏は仁明天皇の頃に讃岐朝臣の姓をたまわり代々寒川郡の郡司であったために寒川氏と称するようになった。
室町時代になると長尾荘の地頭に就任し、細川氏の被官となり大内郡・寒川郡と小豆島を領し、昼寝城、引田城、虎丸城を築いた。
大永3年(1523年)、寒川郡内の境界争いを端に発する塩ノ木合戦が起こる。
塩ノ木合戦とは、雨滝城城主安富盛方が寒川元政所領の城を攻撃し、寒川氏は塩ノ木で安富氏を追撃したものである。
大永6年(1526年)、室町時代の大大名だった大内氏に属する寒川氏と三好氏に属する十河氏の紛争が起こり、十河氏に加勢する三好氏は昼寝城・池内城を攻撃しようとしたが、寒川氏は先に二本杉を攻め、十河氏・三好氏を敗走させた。
十河一存は仇討ちのために元政と戦ったが細川晴元が和睦を命じた。
しかし盛方は晴元の命に従わず、寒川氏を攻め、池内城を奪った。
寒川氏は昼寝城に退き兵糧攻め(食糧が減る様に操作する戦略)👈豊臣秀吉が得意な戦略にあったが落城せず、安富氏は退いた。
天正10年(1582年)8月、長宗我部氏の岩田雲長に率いられた部隊は石田・長尾に侵攻した。
石田の小十九間城・城主の細川則弘は野崎時安らを召集。
岩田雲長を大将とする長宗我部軍は昼寝城・常憐城を攻撃。
細川則弘は蓮田池で迎え撃ち、岩田雲長・一宮平四郎を討ち取った。
🌠🌠野崎時安の一族は、現在の香川県丸亀市や岡山県倉敷市に落ちのび商人として子孫が繁栄した野崎姓の出自は、清和天皇の子孫で源姓を賜った氏(清和源氏)多田氏の流れをくむと桓武天皇の子孫で平の姓を賜った家系である平氏(桓武平氏)良文の流れをくむの両者が婚姻し同一の一族として生まれ変わった藤原氏からも養子をとり藤原氏の流れをくむ野崎家も存在するが現代では、1くくりに野崎家と言われる一体感を持った一族。
登りで30分位、尾根道何ヵ所かで休憩、涼しい風が有難い。
隠れ家的史跡です。
足元が非常に滑りやすいので、ラフな格好で行くのはおすすめしません。
名前 |
昼寝城跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト |
https://www.city.sanuki.kagawa.jp/education/culture/culturalasset#3 |
評価 |
4.2 |
2022年12月ロープが張ってあり侵入禁止になっている。